秋の徒然

定食屋で「大きなのっぽの古時計」が流れていた。思わず聴き入ってしまい、おじいさんと時計のとりまきを想像していくと、どうにも泣ける気分になるのは、季節のせいなのか、歳のせいなのか。
過ぎ去ったもの、失われたもの、もう二度と経験することができなくなったもの、そういうものは、まだ手に入れてなくて欲しいと思うものよりも、数段かけがえの無いものに思えるのもである。もちろん、未来に欲しいものにも執着はあるが、過去において、そのときはどうでも良かったようなものの方が、将来の欲求に勝って大切なものに感じる。
もう晩秋か。
誰かがいっていたのだが、経験するものが新鮮でなくなると、それらの時間は経験しなかったのと同じことになるらしい。
旅に出るとき、行きは、いろいろ目新しいものがあって、道中も旅先でも充実した時間を過ごすことができる。しかし、その帰り道は、行きと同じルートであるにもかかわらず、それが印象に残りにくい。故に、その時間はなかったのと同じになる。
人生においても、同様のことがいえるとしたら、今は行きなのか、それとも帰りなのか。
会社のコーヒーサーバの紙カップの模様が変わっていた。会社でそんな話をすると、カップの模様の変化は気づくくせに、髪型変ったのには気づかないのか、という突っ込みが。女性が髪型を変えたり、眼鏡を変えたり、そういうのにはまるで気が付かない私の感覚はおかしいらしい。いや、気づいてないわけじゃないんだけど。眼鏡はともかく、髪型が変わったことくらいは見れば気づく。でも、そんなことわざわざいわないだけだ。何か変化をつけた当人としては、変わったことについて何か触れて欲しいということなのかな。
「お、髪切ったねぇ」
とか?タモリか。
ということは、向こうもこちらのことをしっかり観察している、ということか。ネクタイが変ったのも目ざとく指摘されてしまった。私のネクタイ見てたの?1000円くらいの安物を2、3本で使いまわしてたんだけど。うわあああ。これはもうちょっとイイやつをつけた方が良いのか。

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