アインシュタインが
「箱の中の猫は生きているか死んでいるかどっちかだ」
といったら、ボーアは
「箱の中の猫は、猫だ!」
といっていた。
正解です。
BDレコーダを買ったので
VHSのテープメディア映像をBDへ移そうと思って
BDの空メディアを買ったんだけど、
やっぱし高いのね。
DVD-R/Wとかだと、10枚で3000円とかありますが
BD-REの場合、下手すると1枚3000円とかね。
(もっと安いのもありますけど。)
BD1枚はDVD数枚分の容量はあるわけだけど
それでもやっぱり高いって感覚はありますわね。
それはそれで。
テープメディアは、
セルものから録画したやつまでかなりあるんですが
(まぁ、録りっぱなしでほとんど観てないんだけど)
どれからやっつけようかなーと
ゴソゴソとマイビデオライブラリをあさってたら
「アインシュタインロマン」全6巻が出てきたのでした。
あれ、こんなの買ってたんだ。
と、自分で買っておきながら驚いたんだけど
そういえば昔買った気もする。
これからやるかってことで
日曜日は1日引き篭もってダビングデーでした。
だって、VHSからBDだと倍速とか高速とか無理ですから。
等速でダビングするしかない。
せっかくだから、久々にその
「アインシュタインロマン」に浸っていたわけです。
いやー懐かしい。
懐かしいっていうか
今見ると、これはこれで新しい発見がありますね。
昔これを観たときの私はまだ若かったってことで、
ふーん程度の認識だったと思われる話とか演出とかも
今見ると、あーそういうことかもしれんなー
とか、新しい知見が自分の中に沸いて出てくることがある。
これ、結構楽しいです。
初めてこれ観たのは、確か小学生くらいの頃ですよ。
その頃の記憶といえば、
何だかにゃーにゃー猫が鳴いてたなぁとか
なんかグニャグニャした奇妙な映像だったなぁとか
そんな程度。
2度目に観たのが再放送だったかこのビデオだったか
その辺は定かじゃないけど、
そのときに、アインシュタインってすげーなー
って思ってたような気がします。
やっぱり、今見てもアインシュタインってすげーなー
ってのは変わらないんですが、
でも、何となく言ってることが理解できるようになってるので
根拠のないすげーではなく、
こんなこと思いつけるなんてすげーって感じになってる。
ただ、彼が常識破りなのは周知の通りなんだけど、
逆に、結構頑固な人かもしれない、とも。
相対論なんて、柔軟な頭を持ってないと発想できない
と見ることもできるけど、
アインシュタインの頭の中には既にその方向の発想ができていて、
その信念に従ってまっすぐ理論化されたもの
と見ることもできるんじゃないかなと。
であるが故に、量子力学を受け入れることができなかった。
「神はサイコロ遊びをしない」という有名な言葉がありますね。
彼が信じる神があるとすれば、それはスピノザの神であると。
要は、全ての現象は最初から法則によって確定していると。
それは真理なんでしょうけど
多分、人間には永遠に語ることのできない真理でしょう。
なんてことを、ビデオ見ながらウトウトしてたら
テレビからニャーニャー聞こえてきて
冒頭の面妖な夢をみてしまったと。
なんか、真理とかどうでもよくって
結局、人間にとって目の前の事象が全てなんじゃないか。
ええ、猫は猫です。
見えることが真理。感じられるものが真理。
その裏に何かあるかもしれないけど、
それは実質的に関係のないもの。
実は、それが真理なんじゃないのか
とも思えてきた。
つまり、裏なんてない。
見て感じてるものが全てであると。
ただ、人間が見て感じられるもの、というのは
他の観察者より極端に少ないんじゃないだろうか。
それはなぜかといえば、
人間が知性を持ってしまったから。
あらゆる現象を知性の元で認識しようとしてしまうことが
感覚のフィルタとなってると。
知性というのは概ね言語による理性的な理解なんだけど、
人間は感覚を無意識に言葉に置き換えてますから。
その時点であらゆる現象が欠け落ちてしまってます。
さらにそれを表向きに表現しようとするとき
言葉を組み立てて文章という表現に変換する。
ここでまたさらにオリジナルの現象が削られる。
でも、人間はそうして文章化された結果を
文化的で美的なものとして受け入れてきたので、
そうした何らかの文脈に沿った発展を遂げてきたと。
といえど、知性を得なかったら
現象を見て考える、なんてことはできなかったでしょうけど。
多分、ラジオボタンみたいなもので
完全な知性を得るか、完全な感覚を得るかは
排他的なものかもしれない。
アインシュタイン方程式というのは、端的に言えば
時空と物質をイコールで結んだ式なんですが、
時空というのが主観(自分たちがいる場)であるとするなら、
物質はその主観から見た客体(他者)ってことじゃないのか。
つまり、主観、即ち、対象。
見てるものが自分自身。
灯台は他者は照らせるけど自分は照らせないから、
自分は永遠に見ることはできないんだけど
照らしてる相手は実は鏡像なのかもしれません。
してみると、宇宙がもともと何かひとつだったとしたら、
それは唯物で見るのではなく唯心で見た方が
よりそれの近似っっぽいという気がしてくる。
そう思いませんか。
宗教的ですか。とですか。
ええ、そうですとも。
ていうか、意味わかりませんね。
まぁとにかく。
知性的に生きるのが幸せなのか、
感覚のままに生きるのが幸せだったのかはわかりませんが
(そもそも幸せって何なのかって話ですが)
実際のところ、私たち人間は知性を手に入れてしまった為に
ある意味盲目になってしまっているのかもしれないなー
なんて思ったのでした。
もし、人が完全な感覚を手に入れたかったのだとしたら、
パンドラがあの箱を開けたのは最大のミスでしたね。
…などと妄想してたらガチャンッとビデオが停止して、
はたと現実に戻される。
そういえば、ビデオって巻き戻しって作業があるんすね。
(うぃぃーんキュルキュルキュル)
なんかこれ、昔は面倒だったけど
今久々にやると、妙に趣がある。ってか新鮮かも。
そんな日曜日でした。