在るということ

最近、存在論というか、存在理論のようなものを時折考えたりしている。そんな言葉があるかどうかは知らないが、要するに、「存在する」とはどういうことかと。
何かがそこに在る、ということ。これをよくよく考えてみると、それが如何に保証されておらず曖昧なものか。それが「在る」ことを認識しているのは、いまそこにいる自我の意識である。もしかすると、周囲にも同様にそれを見ている人もいるかもしれない。しかし、その周囲があると思っているのも、やはり自分の意識である。
つまり、結局、自分の主観が自分にとっての全て。そして、その主観というのが全く何の裏づけもない、それが在ると思うしかないもの。我思う、ゆえに我あり。
今の自然科学が発展する前の段階、哲学や思想であった時代から、何かが存在する、しないという問題を巡って多くの議論があったようで。多分、それが確かに存在するといえるには、それを認識しているのが自分の意識だけではなく、他者の意識によっても確かに認識されているものである、第三者の視点でも自分と同じ認識が共有されているかということになるのではないか。
最近、Bファクトリーの実験で、今度は標準理論を崩すやも知れぬ現象が確認されたらしい。
以前からCP対称性の破れが騒がれていたけど、実際に新しい素粒子の存在が確認されなければ、やはりみんな納得しないのでしょうね。反粒子というのは非常に特殊な状態、実際には加速器の中でしか確認できない。ただ、特殊な状態の下であっても確認できるということであれば、それは確かに存在しているといえるのか。今しがたなかったものが、突然現れて、またすぐに消える。そんなものでも”存在”するということになる。何というか、本来隠れてるものを、人の見える位置に引っ張り出すといえばいいのか。
実は、加速器の中の状態というのは、初期宇宙の高エネルギー状態を再現しているということになるらしい。つまり、今ではそれは特殊な状態と言えるけど、大昔、宇宙が生まれて間もない時期においては、それが普通の状態だったということなのよね。だから、過去の宇宙で起こっていた出来事を、現代において再現するには、ああした巨大な加速器が必要ということ。今は普通に存在しないものでも、過去には当たり前に存在していた、そういうものが世の中にはもっとあるんだろうなと。
量子論、量子力学というものに初めて触れたときに思ったのも、存在するって何だろう、どういうことだろうということだった。量子力学が適用される世界、つまり、素粒子レベルのミクロ世界では、粒子の位置やエネルギーが波動関数というもので記述される。その粒子がそこにあるかどうかということも確率で表現されることになる。つまり、そこにその粒子がそこに存在するかしないか、そのどちらかの状態を確定的にいうのではなく、ある確率で存在するし、ある確率で存在しない、という風にいう。観測という行為をすれば、どちらかの状態になる(波動関数の収縮)のだけど、観測しなければ、それは存在しているし、存在していない。
果たして、これはミクロの世界だけなんだろうか。
素粒子の世界はそのような理屈で語られるのに、それがマクロの世界になるとそうではなくなるというのは、一体どういうことか。私たちは、自分の五感で認識しているものは存在するものと、ほぼ確信している。ときには寝ぼけたり、風邪などで意識が朦朧としているときなどは、自分の認識も不確かで、本当に今見えているものがそこにあるのかあやしいと自覚することもあるけど、通常、健常状態においては、例えば目の前にあるペンやマグカップなど、何度見ても、よーく見てもそこに見えているなら、それは確かにそこにあるペンだ、マグカップだと認識しており、それが存在していないなどという疑いは露ほども思わないだろう。
ただ、その認識はあくまで自分の中だけのものなんだよね。他人に訪ねて、その人も同じように見えているといったとしても、その他人という存在すら自分の意識の中の存在。結局、自分の意識というのは自分の意識であるという事実から逃れることはできず、決して自分以外(他人)の意識になって何かを考えたり認識したりすることはできない。
そうして考えていくと、今の自分の意識は、ずっと同じ自分なのだろうか、という疑問すら湧いてくる。今のこの自分は昨日の自分と同じなのだろうか。1年前の自分と同じなんだろうか。その同一性を自分の中で保っている根拠は、過去の自分を思い出すことができる、自分の経験を連続して遡ることができる記憶だろう。では、その記憶が確かである根拠はあるだろうか。今しがた植え付けられた偽物の記録であるかもしれない。それは違うと確かにいえる証拠はあるか。
突き詰めていくと、マクロの存在である私たち人間も、実はミクロと同じ不確定性の中の存在であるかもしれないと思えてくる。ついさっきまでここにいなかったかもしれない。今この瞬間だけここに存在しているのかもしれない。瞬間、という時間スケールも、ミクロ世界ではナノ秒、フェムト秒みたいなオーダーだが、マクロ世界では数時間、数日、或いは数年オーダーでの不確定性かもしれない。当事者である私たちにはかなり長い期間に感じられるが、実は私たち以外の観察者には、私たちがミクロ世界をみているような時間としてみえるのかもしれない。それならば、実感として納得できそうな気もする。
つまり、私たちが今体験している連続している期間というのは、別の時間スケールでみると、初期宇宙や加速器の中と同じレベルのものかもしれない。宇宙は、時空スケールもフラクタル的に展開されている、ならば、人もB中間子も、同様の寿命を持った存在なのかもしれない。
そんな妄想。

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