みなさん、こんばんは。
今回は、数学が現象の解析の道具である、ということについて、
もう少し考えてみます。
ちょっと思い出してみましょう。
小学校までの算数と、中学校からの数学。
ここで、何かが大きく変化したはずです。
何が?
記号ですね。
中学校数学から、xとかyなどの文字を数式に導入してきたはずです。
例えば、y=ax+b という簡単な一次式。
この場合のa、bは定数で、x、yが任意に変化する変数です。
自然科学で、この現象はこうだ!ということは、
この定数a、bの発見と、どの値を変数に当てるかということを導く
ということにほぼ同義です。
(実際は一次式以上の高次を扱います。)
これを微分したり積分したり、それをグラフにしたりして、
より現実の現象に近似した表現にしていくわけですね。
微分というのは、その式が描くグラフの傾きを求めることで、
積分というのは、そのグラフの曲線が描く図形の面積を求める…
みたいなものです。
ちょっと大雑把ですかね。
例えば、y=ax+bであれば、
xが1のときのyと、2のときのyの値の差分が傾きaになります。
一次式だとこのaはこれで決まってしまいますが、
2次以上になると、グラフは曲線になりますね。
y=ax^2+bx+c とか。(”^”は乗数表現)
その傾きはxの値によって変化します。
この場合の傾きは微分によって求めます。
微分というのは、曲線の接線の傾きを求めるということです。
x=1の点とx=2の点を結ぶ直線の傾きはすぐ求まりますね。
この2つのxの値を次第に近づけていく、
つまり、x=2の点をx=1の点に限りなく近づけていくと、
その直線の傾きはx=1の点の傾きに近づいてきます。
この極限をとる、というのが微分です。
積分も、考え方はこれと同じですね。
ここで、極限をとる、ということがどういうことか。
上の例でいえば、2点の距離が0になってしまうのでなく、
限りなく0に近づいた状態、ということになります。
なので、このような値を実数で表現することはできません。
記号で代替表現することになるんですね。
最初は、パラメータの箱として便宜上使われていた記号が、
次元が高等になってくると、
その記号自体が意味を持ってくるようになってきます。
今の自然科学(特に物理学)のメインストリームでは、
この記号の組み合わせを試行錯誤している、
という作業をしているわけですね。
といっても、闇雲に組み替えているのでなく、
ちゃんと論理的につじつまが合うと予想される(それが見込まれる)
方向へ持って行こうとしているわけですが。
実際、コトが数式に落ちると、
いろいろと現象が扱いやすくなるわけです。
実験や観察によって出てくるのは
質量なりエネルギーなりの数値なわけで、
それが理論で予測される値と一致していれば、
その理論は正解(っぽい)となるわけです。
実験は何度も繰り返して行って、
それが百発百中で当たるようであれば、
ほむほむ、それは理論として成り立つらしい、となるわけ。
20世紀の科学の歴史は、
ずっとこれの繰り返しですね。
理論を立てる、つまり、その方程式を導く。
それが正しいかどうか実験してみる。
或いは、観察される現象からパラメータを取り出す。
その実験値を方程式にあてはめてみて、
正しい結果であれば、それは、
何とかの方程式、とか、何たらの定理、
などと命名されて標準化するのですな。
多分、これ以外に客観的な現象の解釈の方法がないし、
人知の可能な限りで、この手法は最も妥当といえます。
数学が、誰もが平等に解釈可能という性質を持っていますからね。
ただ、逆に、ですね。
人間の知識は、実はその範囲に限定されてしまっている、
ということもできると思うんですよ。
私の望む先というのは、
数学で解釈可能な範囲を出ることはできないだろうか…と、
その辺だったりなんかして。
というか、ただでさえ私たち人間の思考というのは、
私たちが使う“言語”の範囲に限定されているんですよね。
普段感覚したり思ったりすることの全てを
何かの言語に置き換えられるかというと、
それはおそらく無理で、
言語にならない何かもあったりするわけでしょう。
特に、思考は、
ほぼ言語に置き換えられるものにフィルタされています。
言語にならないものは思考に上ることができないということ。
同様に、数学で書けない事項というのは、
それは“ない”のではなく、“考えることができない”のですね。
実際には、そこにも何かあるはずで、
実はそこに重要なものがいっぱい落ちてる気がするわけです。
さてさて、数学で書けない自然とは何でしょうか…。
とりあえず、今回はこんなところで。