生命宇宙の世界(3)

みなさん、こんばんは。
この生命宇宙論の物語はまだ始まったばかりですが、
今回はそのキモといえる“生命”について軽くお話してみましょう。
生命については、今後も頻繁に取り上げて生きます。
だって、生命宇宙論ですもんね。
さて、前回は、
現在の宇宙論のメインストリームは数学体系だという話をしました。
でも、宇宙は本当に数学なのかというと、
そうではないのではないか、という疑問符を与えてみました。
では、宇宙は一体どういうものなのか。
そこで私は、宇宙は“生命”だ、というわけです。
ま、これだけでは三流SF以下なので、
このことについて今後論じていこうというわけですが。
まず、世の中で認識されている“生命”というのはどんなものか。
辞書をひいてみると、
 せいめい【生命】
 (1)いのち。生物が生物として存在できる原動力。
 (2)物事の存立、維持の原動力。
                     旺文社国語辞典 より
などとあります。
第一義は、それが生物たる原動力とありますが、
生物というのは、生物学的な定義にそうとするなら、
 ○外界と区別される自己の枠内で自立的に組織化する。
 ○自己複製、または生殖により次世代をつなぐ。
 ○エネルギーを生産、消費する代謝を行う。
というようなものになります。
もっと厳密な定義があるかもしれませんが、
大雑把に、生物とはそういうものということ。
ここで、生物と生命は次元が違うことに注意です。
生物は、そういうモノですが、生命は、そういうコトなんです。
平たくいえば、手で触れるか触れないか(笑)
(平た過ぎ)
私は、その生命というコトは、
何も生物のそれのためだけにあるものではないと考えたわけです。
生命は、それで体系化できるシステムでしょう。
この“システム”という言葉についても後々触れていきますが、
一般にいうシステムは、およそモノの組み立てに定義される言葉ですね。
いくつかの部品が集まってひとつの機能を成立させるとき、
その集まりのことをシステムといいます。
で、このシステムも、モノだけのためにあるのではなく、
原理、法則にも同様に適用できる考え方だと思うわけです。
次に、辞書の第二義を見ると、物事の存立、維持の原動力とあります。
この「原動力」というのはエネルギーのようなものだと考えると、
それはモノということになります。
モノじゃない何かといえば、やはりそれは抽象概念になる。
コトですね。原理、法則、そのような何かです。
私は、生命は後者だと考えています。
というわけで、ここで私の定義する生命の第一義を書くなら、
 事物を存立、維持する原理、法則、そのシステム
ということになるのですな。
ただ、ここで、それが原理、法則なのであれば、
結局、それは数学に頼ることになるんじゃないかという話になるでしょうね。
ごもっとも。
ただ、私は実証主義者ではなく、
どちらかといえば実在主義に近い考えを持っています。
科学者というのは大きく二種類いて、
一方は、法則を体系的に理論で証明していく理論屋。
もう一方は、実験や観察をすることで法則を証明していく実験屋。
この前者を実証主義、後者を実在主義とくくるとするなら、
宇宙論を研究する科学者というのは、
その性質から実験室で解決できる問題じゃないこともあって、
概ね実証主義になります。
ただ、それは、
ずっと数学の世界を抜け出すことができないことになります。
数学というのは、それ自体が世界なのではなく、
実在する世界を解析するためのツールということで利用されていますが、
人の認識可能性の限界から、
数学の世界でしかほぼあり得ないような事実が説明されているのが現状。
それでも、理論が破綻していなければ真であり、
そのような世界は実在すると仮定できるわけです。
その仮定が、実証主義の世界では現実になっているということ。
そこなんですよ。
人間の脳ミソでは認識できないレベルの実在があるのかどうか。
これは人間の限界を知るという意味でもひとつのテーマになりそうです。
生命というのは、
その言葉自体曖昧で水物というイメージですよね。
定義が、あらゆる局面でいろいろに書かれている。
でも、上に書いたような基本部分をおさえれば、
宇宙というのは、生命という系のもとにあるような気がしてくるわけです。
とりあえず、要点。
宇宙は数学そのものではない。
あくまで数学は宇宙を説明する道具。
では宇宙とは何か。どういう原理、法則であるか(実在として)。
それは生命というシステムそのものである!
発散してきたかなー。
行き当たりばったりでやってますので、そのへんはご容赦…(汗)
次は、標準的な宇宙論のベースである
数学という概念について考えてみようと思いますです。

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