お得な人生

世の中、遺伝子ブームである。科学番組や世紀末特集など、決まって遺伝子のことが取り上げられ、その驚異と感動に人々は釘付けだ。今世紀は、いわば「電気」と「石油」の文明で花が咲いたが、来る世紀は、この「遺伝子」、つまり生命科学の時代となるのだろう。
私たち有機生命を形作るその情報は、全てその遺伝子DNAに秘められている。ところで、遺伝子も、人生を決定する要素となり得ているのだろうか?遺伝子は、いわゆる自己、アイデンティティを構築する上での設計図であることは否めないが、全てをそれによって決定されているかは、まだ未知数だ。


ちなみに、自分とそうではないもの、これの境界について考えたことはあるだろうか?
どこまでが自分なんだろう、というのには、意識や精神の面での自分と、物理的、つまり、どこまでが自分の体なのか、という自分の二つの方向から考えるのが、大体一般的ということになる。
精神的な自分、普段思考しているのが精神的な自分だとしたら、意識を失った自分は、果たして自分なのか?意識が途切れて、その後復活することがある。あれは、脳内の記憶でリブートされている?とすれば、自分というのは結局「記憶」ということになるのだろうか?それでも、何かしっくり来ない。
次に、物理的な自分。これは、自分の体は自分で、そうでないものは他者と、精神に比べて分けやすいのかな、と感じるが、こちらも結構複雑だ。まず、免疫的自己という分けがある。自分でない情報を持った異分子は、免疫によって排除される。ここに一つの自分がある。ただ、免疫も歳と共にエラーが発生するようになるという。本来の自分の細胞をも攻撃することがあるのだ。時には、精神面での自分を左右する脳細胞も免疫によって攻撃を受けることがあるのである。
あと、肉体的自己、自分ではないものを意のままにはできない、という分けもある。自分の手足は自分の思うとおりに動かすことができるけど目の前にある鉛筆は、動け!と思っても動くもんじゃない。それは、鉛筆が自分ではないから。でも、最近のハイテク化で、コンピュータを、直接脳につないで、脳波や眼球運動などを反映してタイピングする、などという装置も開発されている。あの宇宙物理学者ホーキングも、そんな装置を使っている。
自分って何?根源的な問いだが、この答えはなかなか難しい。自分は、自分が自分を確認しながら存在できること、結局、自分って、存在という欲求に固執したエゴでしかない、ともいえそうだ。これは、すなわち、そう仕組んでいる遺伝子のエゴ、に繋がるのか(?)。
何にしろ、他に同調しようと努めながら生きる自分、というものの存在意義が、とても薄弱に思える。どう頑張っても、自分を他者に、完全に理解して貰うことなど叶わない。他者に仮面を見せながら生きる人生に、どれだけの意味があるのか?どうせなら、自分は自分で「らしく」生きた方が、お得な人生といえる。
(1999/06/12 の日記より再掲)

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