結局、車で帰省した。まぁ、8月になって帰省手段を考えてる時点で、ほぼそうなるかなとは思っていたが。
ドライブしながら、いろいろ思ったことがあったが、着いた今となってはその殆んどを忘れてしまった。こういう日記は、そういう泡沫のような思索を書き留めておけるものとして、結構貴重なのかもしれない。あ、これもドライブ中に思ったことである。
大阪の千里のあたりを通るとき、いつも「太陽の塔」と銘打たれた白っぽい塔のオブジェが見える。そのてっぺんと真ん中くらいの高さの場所に顔のようなものがある。1970年、万国博覧会というのが大阪で開催され、それが終わった後も跡地の公園にあのオブジェが残された。岡本太郎という芸術家がデザインしたらしいが、大変失礼ながら、私にはあれの良さがさっぱりわからない。どちらかというとシュールというか、不気味な感じで、子供の私があれを見たら多分泣いていたと思う。
太陽の塔に限らず、世の中で高く評価されている芸術とされるものは、その7、8割くらい、何が良いのか私にはわからない。風景画とか人物画とか、或いは空想であっても造形が実在のものに近いものであれば、まだ私もそれを“常識的な”絵として理解できる。あの色合いとかタッチとか明暗などが繊細で絶妙なのだと解説されれば、ふんふんそうなのだなとわかった気にもなれる(実際あんまり理解してなくても)。
一方で、例えば、ピカソ(後期)やダリなどの作品は、それが一体何を描いているのか(少なくとも私には)わからない。後世の批評家たちがそれらの作品について、これは作者の当時の心情の現れであるとか、これこれこういう主張が含まれているとか、ホンマかいな?と思うような説明をしていたりするが、私にはピンとこない。ピカソは、実は初期作品ではわりと絵としてマトモ、といったら語弊があるけど、人物画ならそれが確かに人物であるとわかる絵を描いていたりするので、その頃の作品の技術が評価されて、後期の作品についても、たとえパッと見わけのわからない絵であっても「きっとピカソだから」ということで何か意味を後付けしようとしているのかな、という気もしないでもない。
いや、別に芸術をバカにしているわけではないですよ。要は、ああいう芸術作品というのは、創った本人が意図していることと、他人がそれを見て評価していることは、必ずしも一致してないだろうということ。ピカソも、後期作品は周りが考えるような特別なことは意図してなくて、単に子供じみたラクガキをしていただけかもしれない。逆に、周りが考える以上にもっと深い意味が込められているかもしれない。でも、それは描いた本人しか知らないことで、見る側としては、勝手に何か自分の中で意味のようなものを想像するしかないだろうと。
実際、芸術というのは、そう楽しむものかもしれない。この作者はどんな気持ちでこの絵を描いたのか。何を思いながらこのオブジェを創ったのか。こんな意味を込めたのかもしれない。この作品ができた時代はいつだったろう。この作品に取り組んだ作者は何歳だったか。そんなことを好き勝手にいろいろ想像をして、きっとこうだろうなぁ、みたいな物語を思い描く。
芸術家としては、それが本来自分の思ったものでなかったとしても、別に良いのかもしれない。むしろ、自分の思った以上の想像を膨らませてくれることは、ある意味作者として本望というものかもしれない。存命の芸術家も、鑑賞する人に向かって「わかってないな」というようなことをいう人ってあんまりいないよね。その人の感想は否定はせず、実はこういう意味があるんですというような注釈をしたりする。それを本職としてる人は特にそれを評価してもらい、買ってもらわないと商売にならないので、他人に何らかの評価をしてもらうということ自体に意味があるのだろうな、と。
今回はちょうど千里のあたりで25キロの大渋滞にハマっていたので、いつもよりじっくりと太陽の塔を眺めながら、何となくそんなことを思っていた。