最近、生命科学の急速な進展によって、人の体をあらゆる方向から操作できるようになっている。試験管ベビーに始まり、臓器移植、遺伝子治療、遺伝子改造、そしてクローン、生体(臓器)培養まで進展しようとしている。これらの技術は、確実に人の役に立つ技術だ。ただ、その是非についてはまだまだ議論、検討されなければならないとされている。
ところで「役に立つ」のに、なぜ議論するのか。これら列挙したうち「臓器移植」に関しては、幸せになる者がいる一方で、悲しむ者もいるという点で性質が異なるところがあるが、それ以外の技術に関しては、あくまでそれを使う本人の問題で、本人が幸せと感じるなら、それは「役に立つ」という話になるのではないか。
近年では、人体のあらゆる部位が、人工的に培養可能となり、それを商品化して売るというビジネスも成立しつつある。これが軌道に乗れば、工場で人体の各部品が自動生産されていくのだろう。実際、米ATS社では、培養皮膚、培養軟骨の開発に着手している。人体の部品もオートメーションで生産されれば、今より安い治療費ですむことになる。しかし、自分の体を含む人体、ひいては人の命を扱うことにおいて、そういう物質的な解決方法で割り切ることのできない人も多いことは確かだ。
おそらく最大の問題は倫理面であり、つまり、人を人の手で作る、というところに対する疑義だろう。後から作り替え可能となれば、人は劣った部分を次々と修正しようとする。あらゆる病気が減る一方で、人間としての個性も消えていくという未来も予想される。
「役に立つ」とはどういうことだろうか。人が幸せになることに貢献できれば「役に立つ」といえるのであれば、人の個性が失われたとしても「役に立つ」といえるだろうか。最新の医療に対して偽善的に異議を訴えることに意味はあるのか。最終的に目的が達成されないのならば、それは「役に立たない」ということにはならないか。
倫理か何かはよくわからないが、それをしてはならない、それをしたらダメなのかもしれない、という、人としての「心」があるというのは(少なくとも私においては)事実だ。それは「役に立つ」という方向のみではない、人としての在り方を否定することに対する歯止めのような疑念があるのだろうと思う。