何となく昔NHKでやっていたドキュメンタリー「アインシュタインロマン」のビデオを見返しているのだけど、かつてアインシュタインは次のようなことをいったらしい。
私は、人間の運命や行動に関わる人格のある神よりも、
世界の秩序ある調和の中に現れるスピノザの神を信じる。
ここでいう「スピノザの神」というのは、哲学者バールーフ・デ・スピノザが提唱した「汎神論」でいう神のことで、これはよくある宗教で信じられている擬人化された神、人格神のようなものではなく、自然における全て、万物=神といった考え方。つまり、物理法則自体が神ということ。
同じ文脈で、アインシュタインが量子力学の確率的なモノの見方に反駁する意味で「神はサイコロを振らない」という有名なセリフを残してるのだけど、してみると、アインシュタインは宗教的な神、例えばキリスト教やユダヤ教などで信じられているような神はサイコロを振るのかもしれないが、物理法則はそうではないはずだ、といったわけね。たぶん。
量子力学の考え方は、確かに直感に反する。例えば、原子核の周囲を回っている電子について、それを観測するまでは位置が決まらない。観測した瞬間、その電子がそこにあるということが確定する。それまでは、そこにあるかもしれないし、ないかもしれない。厳密には、同じ場所について、電子が「ある」という状態と「ない」という状態が重なった状態にあると考える。
アインシュタインでなくても「そんなわけあるかい」と思っちゃうよね。でも、これは御伽話とかSFとかではなく、れっきとした物理学として大真面目に語られている考え方で、波動方程式という数式で記述される。そしてこれは、今に至っても素粒子物理学において主流の考え方になってたりする。
ただ、これはミクロの世界の話で、確かに電子とかクォークみたいなミクロな世界については波動方程式で記述できるのだけど、私たちがふつうに認識するマクロの世界でも同様に考えることができるのだろうかという疑問が湧いてくる。そこに「ある」かつ「ない」なんて状態があり得るのだろうか。
例えば、私が夜空の月を見ている、という状況について、もしその月から私が目を離したら、その月は「ある」のか「ない」のか。確かに、その瞬間私は見ていないので、私の意識からは月は消えている。そうなったとき、量子力学に従うなら、私にとっての月は「ある」状態と「ない」状態が重なり合った状態になる。私の見てないところで、月は霧のようにモヤモヤしてるのか。或いは出たり消えたり点滅してるのか。
ここでは観察者は私だけだが、これを地球上の全人類、いや人類に限らず、月を観察可能な全ての意識とした場合、その全部の意識が空の月を見ていない瞬間があったとしたら、そのときの月は「ある」でもないし「ない」でもない状態になっているのか。
このことを揶揄した有名な思考実験が「シュレーディンガーの猫」というやつね。気密性の高い箱の中に、猫1匹と、放射性元素(確率で放射線を出す)と、放射線を検出したら毒ガスを発生するという装置を一緒にいれてフタを閉める。放射性元素が放射線を出すかどうか、つまり放射線が「ある」か「ない」かは量子力学に従う、つまり「ある」状態と「ない」状態が重なり合った状態をとる。問題は、放射線の有無に猫が毒ガスを食らって死ぬという仕掛けが連動してるので、そのまま考えると、猫も「死んでいる」状態と「生きている」状態が重なり合った状態になっている。それがどちらかに決まるのは、フタを開けて中を見た瞬間ということになる。
もし、スピノザの神がミクロにもマクロにも平等に波動関数を適用するなら、月も猫も、電子や放射線と同じように、誰かが、或いは皆がそれを見るまでそこに「ある」し「ない」、「生きてる」し「死んでる」という状態になる。
この話で違和感があるのが、そこに観察者の意識という主体が必要ということだ。もし観察者がひとりもいなかったら、月も猫も存在しない……それどころか、この世界、この宇宙は存在しなということになるんじゃないか。逆に、世界には観察者がセットで存在する前提なのか。むしろ、観察者あっての世界であり宇宙なのか。
だとして。その観察者が複数なら、世界も複数あるのだろうか。それともその複数の観察者が同じ世界を見ているのだろうか。もしかして、同じ世界を見ているのだけど、ある観察者から見えている世界と、別の観察者から見えている世界は異なっていたりするのだろうか。私もその観察者の1人だとして、私が昨日まで見ていた世界と、一度寝て起きた今日の私が見ている世界は同じものなのだろうか。また明日も同じ世界である保証があるだろうか。私だけでなく、全ての観察者の意識がなくなった瞬間があったとしたら、次の瞬間も同じ世界といえるだろうか。観察者が前提になると、この世界の時間的な連続性というのは非常にあやしくなりはしないだろうか。
と、疑問がとめどなく湧いてくるのだけど、私がこんなことを考えることすら、スピノザの神はお見通しなのかもしれない。