誰も見てない事象は存在するのだろうか。
誰も見てない場所は存在するのだろうか。
例えば、ある時刻に
地球上の誰一人として月をみていなかったとしたら、
その瞬間、月は存在しているのだろうか。
一瞬でもそんなときがあったならば
少なくとも地球人にとって月は存在しなかったに等しい。
次の瞬間、誰かが月を見たとして、
果たしてその月はさっきまでの月と同じものだろうか。
何かの事象の時間的な連続性というのは
それを誰かが見ていることがおよそ前提となっているが、
それは必ずしも保証されていない。
ならば、誰も見ていないものは存在しないと考えた方が
事態はより単純化しないだろうか。
オッカムレーザーの考え方にもあうのではないか。
量子力学の考え方では、
誰も観察していない場合は存在する確率としてみるのだけど
それは、有るか無しかのいずれかということではなく、
有るし無いという2つの状態が共存していることだという。
これは何も決められない優柔不断な考え方だと思えるけど、
その確率という数字はコレと決まる値が出てくるので
その意味では確定的にモノをいっていることになる。
ただ、そのいずれかの状態しか観察することができない
私たち人間の頭脳には直感的に合わないということ。
実は人間の感覚にはかからないような状態が
この世界のバックグラウンドにあるのではないかという話は
SF界隈だけでなく物理学の世界でも多く語られている。
存在とは何か。その連続とは何か。
古来からそのような疑問は哲学とされてきたが、
何かを繰り返し観察することが大前提である科学の世界で
その観察の主観たる思考や人間の心といったところが
極力避けられているというのも滑稽な話である。
それはさておき、やはり目に見えて存在しているものは
時間的にも連続していると考えるものである。
それは誰も見ていなくても存在している。
そうでなければならないと私たちは直感している。
では、もしそうではなかったら。
つまり、本当は時系列で繋がってなどいない。
因果関係があると我々が思い込んでいるこの世界は
実は不連続な事象が無造作にあるだけだとしたら。
その場合、なぜ我々がその世界を連続的であると感じるか
そこの疑問を解消しなければならない。
例えば、人は何故、昨日の自分と今日の自分を
同じ自分という人間であると認識しているのだろうか。
それに実は何の根拠もない。
というより、根拠を必要としない自明な事実であると
少なくともそう思い込んでいる。
意識が続いている間の連続性は
周囲にも認識されることである程度の保証を得ているが、
基本的に自我の連続性は自己完結している。
ただ、例えば深い睡眠や全身麻酔などにより
その意識に不連続な空白が生じる場合もある。
その場合も、自己以外に拠らず
その前後の自分を同じ自分であるという認識で接着している
その役割を果たしているのは、他ならぬ記憶である。
ただ、その記憶とはいかにも曖昧で
それが都合によって変化しやすいものであるということを
実は私たちは知っているのではないか。
もしかすると、寝る前と起きたときの意識は
全くの別人であるのかもしれないのだが、
人はそれを露ほども疑わないのは、実は不思議な話なのだ。
「私は、人間の運命や行動に関わる人格のある神よりも、
世界の秩序ある調和の中に現れるスピノザの神を信じる」
というアインシュタインの言葉を見て思ったことを書いたら、
ちょっと星新一みたいになってしまったでござるの巻。