形あるものは実体がないのと同じことであり、
実体がないからこそ一時的な形あるものとして
存在するのである。
従って、形あるものは即ち実体なきもので、
実体がないことは即ち形あるものとなっている。
心の四つの働きの場合も全く同じことだ。
この世の中のあらゆる存在や現象は実体がない。
元々、生じたとか滅したとかいうこともなく、
汚れたものでもなく、浄らかなものでもなく、
増えることもなく、減ることもないのである。
実体がないということは、形あるものはない。
感覚も、思想も、意志も、知識もない。
眼、耳、鼻、舌、身体、心などの感覚器官もない。
形、音、香り、味、触覚、心象などといった
それぞれの感覚器官に対する対象もない。
あらゆるものを受けとめる知覚から意識までの
あらゆる分野も(最初から)ないのである。
さらに、何らかの悟りに対する無知もないし、
無知がなくなるということもない。
——
以上は『般若心経』の一部意訳ですが。
なるほどなー。何か深いなー。
やっぱり観音様は賢かったんだなー。
…とも思えますが
実はこれって、何もいってないのと同じじゃないの?
とも思えるんですよね。
色即是空。
人間が心を持って、何かを思ったり考えたり、
何かを感じたり知ったりすることに、
生物として生存する、子孫を残すという目的以外に
意味があるとしたら、それは一体なんだろうか?
今は哲学と呼ばれる概念の黎明期から、
人はずっとこんなことを考えてるんだと思うけど、
その回答は一向に見えてこない。
そういうことを追求していくこと自体不毛でしかない。
でも、それを言い出すと、学問と呼ばれるものは
ほぼ全部不毛ということになってしまう。
肝要なのは、実は結果ではなく、過程なのですかね。
何か方向を定めて、それを知ろうと努力する活動。
それが学術であり学問ということになると思うけど、
どの学問も最終結論は出ていないですよね。
むしろ結論してしまったら、その学問はそこで終了。
結論が出る前に次の課題をつくって学問を延命する。
そんなことをずっと繰り返してるような気がする。
何か新たなこと、未知なことを発見し続ける、
そういう欲求が人間の本性にあるということで、
その“未知”というのは今後も尽きる心配はない。
冬の寒空の下、トボトボと駅に向かって歩きながら
なぜか突然「何かを知るって、どういうことなんだろう?」
とか思ったんですよね。
知れば満足。
でも、知ったといっても、それは完全にそれを知った、
理解した、掌握した、征服したという状態には非ず。
見えているものが全てではない、ということは、
何となく“虹”を見ている気分なんですよね。
虹というのは、実体がない。
空気中の水滴を光が通過して屈折し、
いくつかの波長の光に分離して七色に見えている
といのが虹の正体。
でも、虹というそれは確かに認識可能な現象です。
でも、見えるのに実体はない。
見えている虹(の場所)に近づこうとしても近づけない。
近辺の水滴をいくら観察しても、それは虹ではない。
世界とか宇宙とかもそういうものなのかなと。
見えているものが真実ではないとわかっていても、
やっぱり見えているものが認識の中心にあるわけで、
実際、それが人間が真実に近づけない理由だろうと。
結局、頑張って何かをいっても、
それは何もいわないのと同じことなんだ、みたいな。
でも、何もないのは不安だから、
何か「こうかな」とか「こうだったらいいな」という話をつくり、
それを心の落としどころにする、というのが宗教か。
その意味では、哲学も科学も同じですね。
……どうでもいいけど、
「ニノ国」は、DSじゃなく、Wiiとか据置き機向きでしょ。
あんな分厚い本、持ち歩けません。