見て、聞いて、感じている全て。
それらは本当に存在しているのかと、時々疑うことがある。
ホームに滑り込んでくる電車。
朝のラッシュ。渋滞する首都高。
街の人込み。立ち並ぶ店。響き渡る雑音。
すれ違う見知らぬ人々。
会社や学校で会う知り合いの人々。
携帯電話で話す友達。家族。
すべてを取り巻く環境。
何もかも一切合財、
本当にそれらはそこに「ある」のか。
結局のところ、それらを知覚しているのは「私」である。
「私」という意識である。
「私」は「私」以外の視点を持つことができない。
そしてその「私」を認識しているのもまた「私」である。
だから、私にとって、私の意識の中が全てであって、
私の意識がなくなれば、世界もなくなる。
それは、おそらく私だけにとっての世界だろうけれど。
解剖学者の養老孟司さんは「唯脳論」という本の中で、
事物は全部脳からの表出物だ、といっている。
本当にそういう実体があるかどうかは重要ではなく、
要は、脳がそう感じている、ということだろうと。
この考え方だと、あらゆる自然現象を語る物理法則なども、
脳がつくりだしたもの、ということになるが、
自然科学の立場では、創り出したものでなく、
自然の中から発見したもの、ということになっている。
ただ、そもそもそういう自然さえ、
脳なり意識が感じているものであるので、
それらも脳や意識の産物、といえなくもない…。
私たちは、知覚しているのか、創造(想像)しているのか。
それとも、そのどちらでもないのか。
しかし、この世界、ひいてはこの宇宙は、
脳が創造した世界というには出来過ぎている気がする。
まして、それがたかが私の脳となれば、
私の知り得ない数式や法則などで彩られたこの宇宙の容量は、
あまりにその器に対して大きすぎる…。
誰の言葉か忘れてしまったが、大学生の頃に聞いて、
これはずっと解決しないのではないかと思っている問題がある。
「夢と現実を区別する確かな証(しるし)はない」
夢の世界を認識しているのも、私の意識であるし、
現実の世界を認識しているのもまた、私の意識である。
夢(だと思われる世界)は、
確かに私の脳が作り上げたと思っても差し支えないほど
バカげた(想像の範疇と思える)内容であることが多い。
しかし、意識がその夢の中にいるうちは、
それは私にとって現実に他ならない。
仮にそれが明晰夢だったとしても、
意識は夢を現実と同等に扱っている気がする。
今こうしている私ですら夢を見ている状態なのかもしれない。
これが夢ではないという保証をすることができないのである。
昔読んだ山田正紀の「最後の敵」というSFの中に、
今自分たちが現実だと思っていた世界は、
実は真の世界ではなく“レベルBの現象閾世界”と呼ばれる
別の現象世界だった…という設定があった。
映画「マトリックス」では、
主人公ネオたちが現実だと思っていた世界は、
実はコンピュータに支配された電脳世界だった…
という設定であった。
ただ、それらのフィクションでも真の世界はあって、
それもやはり現象世界(知覚や意識の及ぶ世界)だった。
実は、この世界の裏には、
もっとプラトニックなレベルの世界があるんじゃないか…?
それは、私たちが感覚できるような現象世界ではなく、
真実が現象化していないそのままの(LOWな)世界、
感覚するのではなく、意識する世界だ。
その世界が現象化すると、今の宇宙のような姿になる。
この宇宙自体が、
いわば、真実がみている壮大な夢の世界、ではないのか。
宇宙にみられる構造や物質、あるいは法則は、
およそ元の有り様に自己相似する形で現象化している。
(“フラクタル”の実現)
…なんて考えると、
宇宙(という真実)の一部が現象化する過程というのは、
私たちが夢をみているようなものなんじゃないかな、と。
(念のため、これは希望的観測を含んだフィクションであります)