心のインスタンス

前の記事を書いていて思ったんですが…
(またかい)
じゃ、「心」ってクラスなんでしょうかね。
クラス、ですわね。「心」というモノ自体は抽象概念だし。
心がどのようにして発生するかということは、認知科学とか脳科学とか、
そのあたりで研究されている話になるんでしょう。
脳内の神経細胞(ニューロン)が興奮することで、
私たちの知情意という心の活動が発生すると。
脳のどの部分に電流が流れれば、どういう感覚が現れるか、
またどの部位の感覚に関わってくるか、などということは、
もう今でも結構分かっているようですね。
感情にも、怒り、悲しみ、喜び、憂い…いろいろあります。
さらに、単に「怒り」といっても、
その中にはさまざまな要因でさまざまな性質の怒りがある。
仮に、私とシャラポワが同じ映画を観て、
同じシーンで怒りを感じたとしても、
私の怒りとシャラポワのそれとは違うものでしょう。
(何でシャラポワかは置いといて…)
その時点で現れている2者の「心」は、
そこで実体化されている…実体という表現は適当じゃないかもだけど、
とにかくそこに発生している現象(コト)というのは、
クラスかインスタンスか?といえば、インスタンスでしょう。
ただ、心の場合は、形がない、というか見えないので、
どうもそれがどういう格好をしているものなのかがよく分からない。
その実体化した心(感情)は、
まさにそれが起こっているその時点のその当人にしか認識することができない。
ここらへんが「車」などの目に見える実体とは違うところで。
私とシャラポワがデートしていて(…あー突っ込みはいいから)
喫茶店で同じカプチーノを飲んでいても、
私の感じるカプチーノの味とシャラポワのそれとは違う。
夜空の星を見て、2人で「キレイだね」といっていても(…突っ込まない突っ込まない)
私の「キレイ」とシャラポワの「キレイ」は、異なる「キレイ」でしょう。
私と彼女では、眼の構造も、脳の構造も、
同じ人間なんだからほとんど変わらないはずなのに、
そこで実体化する「心」は違うということです。
そうしてみると、
「心」というクラスは、実は結構解明されているのかもしれません。
そしてやはり難しい問題になっているのは、
さまざまな場面でさまざまな人の中で実体化する
「心」のインスタンスでしょう。
そのインスタンスは、現れてはすぐ消える、保存もできない、
しかも一回性で再現することがほとんど不可能だというのだから、
科学で扱いづらいのも無理のない話です。

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