完全な自由を求めるなら、
自己という形を捨てるしかない…
解釈を間違うと問題発言ですな。
ふと思ったことなんだけど、
宇宙が始まったその瞬間、エネルギーのスープ状態だった頃、
物質という形態をとる前段階では、
それらはあらゆる可能性を持った完全に自由な姿だったんだろうなと。
もっといえば、
そんな原始宇宙ができる以前の真空状態こそ、
それこそ可能性しかない状態、完全なる自由な姿だった…。
物理学でいう自由という言葉の意味合いはちょっと違うのだけど、
ここでいう自由というのは、
俗語的な自由というか、何でもできる、何でもなり得るという意味。
可能性はあるけど、
実際それがそうなるかはその後次第なんだけどね。
人間という形を持って、
それが自己と他とを区別する性質を持った瞬間、
それは自由でなくなる。
まず自己は自己でしかなくなる。
分かりやすくいえば、私はずっと私で他の人にはなれない。
人でなくとも、
モノがある形をとった瞬間、
それはそれというモノになって、その他のモノではないものになる。
即ち、その他のモノになることはできなくなる。
そんなわけで、
完全な自由を求めるなら、いったん自己をバラすしかないということ。
ただ、今のエネルギー状態でバラせる最小単位は決まってるので、
既にその程度の自由は奪われているわけですけどね。
ただ、人がそんな自由を求めているかといえばそうではなく、
人はあくまで自己という枠内で可能な限りの自由を求めるのでしょう。
自由に捉われなくとも、自己に可能な欲求とその実現を求める。
それを叶えること、その努力をすることが、
人が生きるということ、それそのものなんでしょうね。
私はクルミの殻の中に閉じ込められた
小さな存在に過ぎないのかもしれない。
しかし、私は自分自身を無限に広がった
宇宙の王者と思い込むこともできるのだ。
シェークスピア「ハムレット」より