その理由

何事も究極に突き詰めて考えると、ぜーんぶ一切合切みんな意味ないじゃん、て思えるようになってくる。
例えば。何かを便利にするある文明の利器があったとしましょう。社会の交通インフラを支える電車なんてどうでしょうか。
「電車」。
もうアタリマエにそのへん走ってる。(都市部に限る)この電車は乗客を目的地(の最寄駅)まで運ぶという使命がある。で、その乗客はなぜその目的地まで行かなきゃならないんだというと、その先にビジネスなりプライベートなりの用事があるから。じゃ、人は何故ビジネスをするのかといえば、それは生きていくためにお金を稼がなきゃならないから。では、なぜその人は生きていかなければならないのか、というと……
何故でしょうね?
とにかく人は生きなければならないという最終目的があるわけですが、生きるのに理由は必要ないのでしょうかね。人に限らず、生あるものは皆生きている。そこで生命活動をしている。食べて、繁殖して、これを繰り返す。次世代につないで、また同じ活動の繰り返し。何故そんなことをするのでしょう?
生き物に限らず、全ての存在がそこにある理由というのは、実はないのでは。そこに在らねばならない。そこになくてはならない。そんな理由はないけれど、しかしあるのです。あるから、その存在を私たちは認める。
結局、宇宙というのは、在るだけのものなのか。
しかし、人間は知性を持って、それが何故、どうして、どんなふうにと問うようになった。それを問うのが知性。しかし知性などなくても、そのような真実は最初からそこにそのようにあるはず。
……本当に、あるんでしょうかね。
実は、知性というのは、世界を形作っている造物主なのかもしれない。発見によって世界が、宇宙が広がっていく。何らの知性もこの世に誕生しなかったら、宇宙というのは「観客のいない舞台」のようなものだったのか。
その舞台では、観客はいなくとも、やはりそういう演劇は展開されていたのか。それとも、観客がそれをみなければ、その(宇宙の歴史、宇宙の姿という)演劇はなかったのだろうか。目下、私たちは自分たちの利害で行動する。自分が今何をやりたいか、あるいは、組織が、社会が今何をやる方向に進んでいるか、基本的にはそれに沿った行動をとる。それに理由を問わない。
そうして存在し、行き続けている自分、あるいは社会の人々がとても不思議に思える瞬間が間々あったりする。

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