どうも新しい上司は、私と馬が合わない。
というのは、異端を嫌い、右に習え、安全に、無難にやれの典型的な人間で、自分の部下も、自分のやる仕事も、全てスタンダードであるべきだ、という具合に固執してるのである。まあ、これが日本の会社員の平均的な姿かなと思うのだけど、それにしても型にハマり過ぎというか、例えば、開発言語で最近はC#という選択肢もありますよという話をしたら、それはうちでは使ったこと無いからVC++にしろとか、そういう感じの人なのである。全く面白くない。
ところで。
某ニュースキャスターが、文化庁(だったかな)の国語の調査で、若者中心の言葉使いをみていると、日本語が乱れてきているのではなく、日本語が消えつつあるのではないかと思う、みたいなことをいっていた。
ら抜き言葉にとどまらず、敬語が正しく使えない、語尾をぼかすクセがついている、省略が進む、そもそも用法が間違っている、などがエスカレートして、そちらの方が生きてきてしまっている、と。本来の正しい日本語が廃れつつある、ということらしい。
言葉は文化の中心である。
使われなくなった言葉は死語になり、代わってよく使われる言葉の方が標準になってくる。「超~」とか、「~的」とか、最初はギャグやネタとして使われていたような言葉が、今ではあまりに普及して違和感がなくなっている。これを問題と呼ぶか、言葉の変化、進化として受け入れるかは、人それぞれ考え方、受け入れ方次第かなとも思うけどね。
何でも、舞台や演劇の脚本家などが、そこで使う言葉をどうするか困っているのだそうだ。正しい本来の日本語を使うと、観客が理解できないことがあるからだという。流行を行く大衆には、そのような言葉が古く難しい言葉のように感じられると。
例えば「やまのかみ」というと「山の神様」のことかなと思ってしまうが、これは妻(奥さん)のことを指す言葉らしい。世間で「かみさん」といわれてる、あの「かみ」。もとは、江戸時代の武士階級の人の配偶者のことが「おく」と呼ばれていたようで、自分の妻を「おく」と呼ぶのは恐れ多いということで、当時の人々が「ういのおくやまけふこえて」という“いろは歌”から、「おく」は「やま」のすぐ上にあるから「やまのかみ」となったのだそうだ。そんなの知らんよね。
その語源などもちゃんと理解しているべきなのか。理想はそうなのかもしれないけどね。要は、意味が伝われば良いのだと思うけど、同じ言葉でも解釈が違うと伝わらないというのは、確かに問題かもしれない。