成人の日。今年からハッピーマンデーとやらで月曜に回って3連休となった。街に出てみると、そこかしこに晴れ着姿の女性や、ぎこちないスーツ姿の若者の姿を見る。おそらく成人式の帰り、久々に会った同級生を懐かしむ一時…
私にも成人式はあったのだが、かつて慣れ親しんだ人に会うと、確かに自分は過去に存在していたのだな、と思うことができる。私も相手を知っているし、相手も私を知っている。「変わったね」などといってくれる人もいるが、それは昔の私を知っていて出てくる言葉である。そう、自分は他人によって認識されていて、これは今も昔も変わらない。とすれば、当然今の私を知っている人で、仮に10年も会わなかった後に再会すれば、私を懐かしいと思ってくれるのだろうか。
懐かしい、という概念は、私たちが時間を連続して認識している証拠でもある。つまり、過去のみ記憶していくという私たちの脳の構造が、「懐かしい」という概念を成立させている。もし、ディジタルに自由に時間を前後できたりすれば、私たちはいつの時代も対等に認識するのだろう。遠い過去ほど懐かしいと感じる。そしていつしかその記憶も存在しない時間がある。私たちには始まりがあって、そこから記憶が積み重なって今に至っているということだ。始まりより以前もまた、私たちは懐かしむことはできない。
偶然にして私たちは始まり、私たちの時間を過ごす。その時間を共有して存在している家族や友人。これらの巡り合わせは最初から決まっていたものではない。ほんの偶然である。そうでない可能性、つまり私が今ここに存在しない可能性もあり得たのだが、偶然にして同じ時を過ごすことになった私の取りまきとその関係。仏教の考え方で、人と人が出会うのは、その人同士に「縁」というものがあるからだとされている。
数年前、私の成人式の講演で、「縁」を大切にしよう、という内容の話があった。これはおそらく、出会った友人を大切にしよう、ということで、「縁」そのものは私たちの考えでどうにかできるものではない。むしろ、「縁」によって操作されているのは私たちの方ではないか、とも思えるが。