何が正しいのかわからない世の中

新聞 政治・経済・社会

さて、書こう。

結局、3月はブログ書かず終いでありました。まぁ、誰も毎月書くとはいってないし?

最近、テレビとか、新聞とか、ネットとか、今の世の中を描写する情報というものを眺めて思うんですが、みんな何が正しいと思っているのか、何をすべきだと思っているのか、世の中はどうあるのが良いと思っているのか、よくわからなくなってないですかと。

まあ、そんなものいくら考えてもわからないし、そんなこと(わからないこと)は最初からわかってるところでもあるんだけど、ある程度あるわけじゃないですか。社会の常識というか、モラルというか。
例えば、他人のモノを盗ってはいけない。人に迷惑をかけてはいけない。人を傷つけてはいけない。 そういう基礎があった上で、弱い立場の人や生活に困ってる人の保護を求めたり、格差是正を訴えたり、理不尽な差別を批判したりするものだと思うのだけど、何だかそもそもの基礎部分をすっ飛ばして保護や権利を主張する人が多い。要は、自分たちが「悪いこと」だと判断したことに対する行動は(その事柄に関係ない)人に迷惑をかけてでもやるべきだと考えてる人が多くなってる気がするんですよね。

私の子供時分を振り返ると、あの当時は大人の判断が絶対に正しく、学校で教えられることも基本的に間違いはない、新聞やテレビのニュースなどは疑う必要のない事実で丸呑みで信じていた。表面上それで何も問題はなかったように感じていたのだけど、それが今の時代に至り、実は大人も間違うことがある、むしろおかしな思想の大人が多いことを知り、学校での教育も不備が多いこともわかり、新聞やテレビに及んでは実はつくりものの情報が大半、率直にいってウソだらけであることも分かってきた。

この事情が明らかになってきたのは、何といってもネット情報の台頭がある。ネットというのは、報道機関というフィルターを介さず直接世の中で起こってることを現場の人間が発信できる場所なんですよね。ニュースではあんなこといってるけど、実際は「そんなことねーよ!」という突っ込みが当事者から入る。それが1つや2つならまだ「マスコミもチョンボすることがあるんだな」で済むかもしれないのだけど、実際は1つのニュースに対して10や100では効かないくらいの指摘や訂正が現場からあがってくると、マスコミってホントに信じて良いの?意図的に間違えてない?という話になってくる。これは今に始まった話ではなく、かなり昔から都合の良い情報操作が行われていたんじゃないか、ということになってくるのよね。昔は正しいと思っていた新聞やテレビの報道も、その信頼性が土台から崩れてくる。

ネットがない時代は、新聞やテレビの報道が世の中の全て、イコール事実だといっても過言ではなかった。実際に報じられているニュースの実情を知ってる人が身近にいれば別ですが、 一般人が新聞やテレビ以外の手段で情報を得ることはほぼできなかったわけですからね。いわば、新聞やテレビなどの報道機関が事実をつくりたい放題な時代だったわけです。

ところが最近はそうはいかなくなってきた。新聞にいい加減なことを書くとすぐネット上で突っ込みが入るし、そのニュースと突っ込みの双方共にそれが事実なのかどうかも、ネット上だけですぐ検証できるようになっている。要は、ウソの情報はわりとすぐバレる時代になってるということ。

これで面白くないのは、これまで報道を独占してきた新聞やテレビなどのマスコミでしょう。または、そのマスコミを利用して都合の良い”事実”を日本にバラマキ続けてきた何者か。彼らも自分たちの立場を危うくしているのはネットであることを認識していて、最初はネット上で信頼性の低い情報を流すネットユーザーの批判キャンペーンをやっていたのだけど、スマホの爆発的な普及によってネットユーザーと一般人の境界が見えなくなってきた今に至り、今度はネットというメディア自体をいわゆる「フェイクニュース」の温床であるかのような批判をするようになってきています。

今はおよそ、新聞やテレビなどのマスコミの報道について、ネットユーザー(その背景にいる当事者、専門家、その事情を実際に知る人)が検証し、報道の内容が間違いなら指摘されるという構図になってる。この力学が働くことによってマスコミも少し姿勢を変化させているのだけど、どう変わっているかというと、例えば新聞なら、その記事の内容では極力ウソを書かないようにはなってきてはいるんですよね。ただ、その記事の見出しで不正や疑惑を匂わせたり、記事の内容でも「~という懸念の声もある」とか「~という疑いもある」など、いわゆる印象操作という形で読者の認識をある方向へ誘導している。

ただ、この印象操作にも限界があり、事実には勝てないんですよね。例えば、マスコミ(或いはマスコミを利用している何者か)に都合の悪い人物に対して「何か悪いことをしたのではないか」と疑いをかけても、実際にその人がそれをやってなければ、証拠も出てこないし、法律に触れていなければ罪に問うこともできない。昔なら、マスコミがちょっと疑いをかけただけで世論を誘導して政治家の1人や2人失脚させるのは容易だったのが、最近は「本物の犯罪者」でなければ追い詰めることができなくなった。まあこれは当然のことなんですが。

この期に及んで、新聞やテレビ(とその勢力)がどうしたかというと、別に何も悪くない、つまり何も法を犯してないし、誰も傷つけてないし、誰にも迷惑がかかってないことであるにも関わらず、いかにも悪事を働いたかのように宣伝して、謂れのない糾弾をするという、いわゆる難癖をつけてケンカを売るというヤクザ紛いのことをやりはじめてる。

報道やジャーナリズムは、権力を監視し、悪行があれば一般市民に知らしめ、正々堂々と批判する、そういう建前がある。それは理解できますよ。ただ、今の報道、特に政治まわりの報道を眺めてみるに、一体それの何が悪いのか、それが悪事だとして証拠はあるのか、証拠があるならさっさと出して訴えたら良いじゃないかと思うことばかりなんですよね。悪事を働いたことが確定できないからこそ、同じ問題(疑念のレベル)でダラダラと時間を浪費してるんじゃないのと。

ここまで書けば、私が何のことをいってるのか大体察しがつくと思うけど…そう、森友学園問題、加計学園問題、自衛隊の日報問題、そこから派生して明らかになってきた各省庁の杜撰な文書管理の問題、これらと安倍政権との関係を疑ったり、閣僚である大臣に管理責任があることを殊更強調したりといった報道ですよ。

確かに、公文書を改ざんしたり隠蔽したりというのはアウトですよ。ただ、それをやらかしたのは官僚であって、大臣はそれを律する立場、つまり、役所の中で不正をやってるのがわかったのなら、それを国民の立場から指導、修正していくのが仕事でしょう。大臣も国民が選出した議員であるわけですからね。それを「官僚の責任は大臣に責任」とばかりに辞職を求めるのは、選挙による間接民主制を否定しているんじゃないかとすら思えるわけです。(まあ、全ての大臣が本当にそういう信念を持って仕事しているかは置いといて…)

自衛隊の日報に関しては、これは意図的に隠蔽していたのか、忘れた頃に思いがけなく出てきただけなのかはわからないけど、いずれにしろ公文書の扱いが粗悪過ぎるという批判は免れないとは思います。とはいえ、そもそも自衛隊の日報を他の省庁における公文書と同じ扱いにすべきなのかという疑問もあり、私はむしろそちらの方が問題だと思う。

自衛隊の日報というのは、その日の自衛隊の活動(作戦行動)が仔細に記述された文書であるということなので、これを一般国民、ひいては国民以外の誰でも参照することができる公文書として扱うのは、国の安全保障上の問題があるでしょう。戦闘を前提としないPKO活動の日報は公開すべきという声もあるけど、戦闘を前提としないPKO活動であるからこそ、そこに「戦闘」という単語を書けなくなるという弊害があるのよね。

文民統制(シビリアン・コントロール)が脅かされているという煽りもあるけど、もし自衛隊が文民でなく軍人であるとするなら、なおさら日報は軍事機密として扱うべき。その公開が前提になってしまうと、本来書き残すべき細かい作戦行動も機密を守るために書けなくなり、後で参照する情報としての価値のない報告書になってしまうでしょう。特に日本(自衛隊)の場合、武器弾薬が使用されただけで国内が騒がしくなるので、仮に敵性勢力の攻撃を受けてそれに応戦したとしても「戦闘」とは書けない。こんなおかしなことはないでしょう。

森友、加計の話に至っては、これ政権はほとんど関係ない案件ですよね。森友問題は、そもそも国有地が破格に安く払い下げられていたことから、どこぞの新聞だか週刊誌だかが「アベが籠池に安く売った」という疑いをかけたのが発端だった。しかし、あの土地が安く売られたのは結局財務省(理財局)の都合上だったことがわかっていて、安倍氏も政権も関係なかったと。それでもなおマスコミや一部の政党の議員たちは「こんな文書が出てきた」だの「口裏あわせしてた」だの、本来役所の不手際を安倍政権が悪いことにして騒ぐことを止まない。加計学園の件はそもそも問題ですらない。むしろ、よくぞ岩盤規制を破って獣医学部を新設してくれましたというべき案件ですよ。

こうした状況をみてると、今でこそネットの発達で新聞やテレビの情報が全てではないことが認識されるようになったのだけど 、以前はこんな新聞やテレビに日本国民はずっと騙され続けてきたのかなという暗澹たる気持ちになってくるのですよね。今の安倍政権なんてマスコミから総スカンされていて、これが10年くらい前ならあっという間に沈んでいたでしょう。というか実際、第一次安倍内閣は農水相の「ナントカ還元水」の一件だけでボロクソいわれて撃沈しましたよね。今にして思えば、あれがそこまで問題だったのか(当の発言をした松岡農水相[当時]は自殺している) 甚だ疑問です。

一体、何が正しいのか、人は何をすべきなのか、世の中はどうあるのが良いのか、その答えはおそらく哲学の領域で、これは人それぞれの価値観によって10人いたら10人とも違うと思います。ただ、何をしたらダメなのかについては明確な答えがあり、それは、なるべく人に迷惑をかけないこと、これに尽きると思うわけです。

なるべく、というのは、人が他人と付き合いながら生きていく宿命を負う社会的な生き物である以上、多かれ少なかれ他人にある程度の迷惑はかけてしまうから。例えば、満員電車が揺れたときに他人の足を踏んでしまうこともあるかもしれない(その可能性は排除できない)。そうならないように頑張って立っていく、そういう努力をしながら生活していくというのが、社会生物である人間の最低限の在り方ですよね。

そこを踏まえた上で、例えば報道において「これは悪事」とされていることを鵜呑みにせず、本当にそれが悪いことなのか、何が悪いのか、それで誰が迷惑しているのか、または誰が得をしているのか、そういうことを(必要なら情報を集めて)自分で考えて冷静に判断していけるようになると、様々なニュースの評価も誤らずにすむんじゃないかなと思うわけです。

とにかく、みんな怒り過ぎ。そしてマスコミも世論の怒りを誘導し過ぎ。そんなに意味ないことに怒っても何も良いことないでしょうに。誰にとっても正しいことなんかないんですよ。ちゃんと怒る対象は本当に怒るべきものに絞っていかないと、いたずらにお腹が減るだけです。

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