宇宙とは“無”。“無”とは均衡。
その均衡が崩れ、正に転移すれば物質やエネルギーとして現出する。
それは負への転移も然り……。
宇宙の構成要素は“物質”、“エネルギー”、“空間”とされる。
ただし、今では“物質”=“エネルギー”とされている。
つまり、エネルギーと空間が宇宙の構成要素である。
では、空間とは何か。
空間が閉じた領域だとするなら、その外は空間ではないのか。
仮にそうだとしても、空間が存在し得る領域はあると前提する。
それは即ち空間ではないのか。
もしかすると、エネルギーと空間があるという
その感覚自体が、人間が創り出した妄想なのかもしれない。
我々が今目にしている全ての光景、体験、存在、時の流れは
全て私たちの意識がそう解釈している。
意識とは何かがいまだ解明されていない今
その認識をメタ的に理解しようという試みは無謀なのかもしれない。
物理学を扱う学者は感覚や意識というものを排除するが、
その感覚で観察し、その意識で考察しているということは
常に忘れられているだろう。
地球上の人間以外の知性が宇宙をみているとする。
それは、人間がみているそれとは全く別の光景かもしれない。
そして、存在そのものの概念が異なっていれば、
その知性と人間がお互いを対等な存在として認識できないだろう。
人間の理解する自然法則は、概ね数学的に語られる。
数学はそれを見る人に関係なく常に同じ解釈を与える道具だからである。
しかし、それが正しい宇宙の理解である保証はない。
例えば、リンゴとミカンがある。
物体として、或いは個体としてのリンゴとミカンは違う。
ただ、リンゴは1つ2つと数えられるし、ミカンも同様である。
ところで、2つのリンゴと2つのミカンは異なる事象である。
それを数字にすると、どちらも「2」である。
ほぼ同様に、物理学ではあらゆるものを数学的に抽象化、単純化し
客観的に現象を理解しようと試みている。
例えば、重力による作用と、加速度による作用は同じとされる。
これは一般相対性理論による解釈だが、
これも、数式で表現すると全く同じ記述に帰結できるからだ。
それが正しい考え方なのかどうかは、
実は私たち人間が人間以外からこれを客観視できない以上
永遠に断定することはできない。
実は真理から離れていっている可能性もある。
少なくとも、現状の学問や常識は、
あくまで人間同士の了解事項でしかないということだ。
知性がある意味、理屈を語る意味、何かを理解しようとする意味、
そんなものは最初からない。
実のところ、宇宙の真理なんてものもないのかもしれない。
人がそう理解したなら、それがその人にとっての真理であり、
それを基礎に様々な信念が築かれていくものなのかもしれない。
今年はいろいろ不幸な事件も多かったけど、
人類規模での知的な発見もかなり多かった年だったと思う。
この勢いで、来年もいろんな発見があるといいですネッと。
そんなわけで、良いお年を!