伝心

言葉では伝わらないこと、というのもあるし、
言葉にしなければ伝わらないこと、というのもある。
自分の思っていることを相手に伝えるという場合、
自分の思っていることそのものをそのまま伝える
ということはほぼ不可能に近く、
どれだけその“思い”に近いことを理解してもらえるか
ということなのだろうと思う。
その手段は、言葉による伝達というのが一番早いわけだけど、
言葉だけではなく、同じ思いを抱くそのような状況をつくり
同様に相手に感じてもらうということもある。
それは、身振り手振りであったり、言葉ではない音であったり、
場所であったり、風景であったり、香りであったり
音楽であったり、何らかの物であったり、事であったり。
ただ、全く同じ状況に自分以外の他人をおけば、
その人も必ず自分と同じ“思い”を持つかといえば
必ずしもそうではないだろう。
ときに、その“思い”というのは、相手に伝えたいものもあるが
逆に、相手に伝えたくない、換言すれば「知られたくない」
というものも多々ある。
しかし、得てしてその「知られたくない」思いというのは
伝えようと思わなくても伝わってしまったりするものでもある。
伝えたいことは伝わらないし、伝えたくないことは伝わる。
これは、それを達成できなかった、という経験や、
失敗した、という経験が印象に残りやすい為の話でもあるが。
この“思い”の迷走というのは、
人の活動のあらゆる場面で同じことが起こっているような気もする。
とにかく、自分の思いや考え方、感じ方、その感性というのが
他人でも同じようにあるかといえば、全く同じではないということ。
ただし、言葉や様々な手段で思っていることを伝えて
ある程度の理解は得られるわけだから、
他人が全く異なる感性を持っているともいえない。
つまり、人としての共通的な感覚の部分で思いを共有するが、
それ以外の、人それぞれの感性や経験によって左右される部分もあって、
そこの振れ幅がどれだけあるかで、話が通じる相手かどうか
ということも変わってくるのだろうと。
ちなみに、その共有できる部分というのは、
おそらく、言葉にすることができることはほぼ共有できるかと思うけど、
言葉にできない部分、言葉で表現しづらい部分ということというのは、
実はかなり多い気がする。
もちろん、言葉に出来ない感性も、共有できなことはなく、
例えば長い間一緒に暮らしている家族や友人などの思っていることは、
言葉にしなくても大体理解できたりといったことはある。
しかし、基本的に全て理解してもらえる、という前提に立ってはならず、
おそらく、喋ることの半分以上は右から左に受け流されている
と思っておいた方が、後の落胆が少なくて済むだろうということ。
本当に相手に伝えたいと思うことは、
なるべく他意のない言葉で、それのみを短く端的に伝えること。
ただ、これは逆に、相手に大きな誤解を与えるリスクもはらむことには
なるのだけど。
そして、この文面も、おそらく私の思いを十分表現しきれていない。
………
あーそういうことじゃないんだ、という葛藤や、
いくらいってもわかってもらえない、という諦めや、
そういう意味じゃなかったけど、そうかもしれない、という同意や、
何気ない会話もそういうところに注意して聞いたり喋ったりすると、
いろいろ面白い発見もあったりしてね。
その場合、全然話を聞いてない、という事態になりますが。
Jブンガクを見ながら、何となくそんなことを思いました。

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