エロイームエッサイム!
どうも、頭の中がカオスです。
例えば、サイコロを10回振ったとき、
10回続けて1の目が出たり、或いは1、2、1、2と繰り返したり
そういう目の出方をすると、何かそこに神がかり的なものを
感じてしまうのは、なぜでしょうかね。
サイコロというのは1から6まで目があって、
それぞれが出る確率は6分の1でどの目も平等なはずです。
逆にいえば、一回一回に関していえば
1が出るのも他が出るのも同じ確率なわけで、
毎回1が出るのも、2、4、2、5などと出鱈目に出るのも
同じくらい“ありそうなこと”なのです。
でも、実際には出鱈目に出る方が自然にみえる。
実際、サイコロを何度も振ってると、
同じ目がずっと立て続けに出るということはあまりなく
それぞれの目が大体同じ回数だけ出てくる。
実は、こっちの方が不思議じゃないの?
いや、不思議とかそういう話じゃないや。
こういうのを「大数の法則」というんだけど、
成り行きを自然にまかせてると大体そうなる、という
落としどころのようなものがあるってことなのね。
安定すべき場所がある、ということか。
仮にその安定する(抽象的に定まる)点があったとして、
現実は、事象が完全にその点に安定することはない。
その安定すべき点の付近でウロウロしてる感じ。
これを崩す存在がいわゆる知性という存在で、
知性は一般的にいう“自然”に抗うことができる
何かそういう力を持った存在だとみられている。
人間は、本来バラバラに存在しているはずの
原子、分子、それらからなるあらゆる物質を集めて
合金をつくったりプラスチックをつくったり、
それを材料に車とか家電とか何か建築物とか、
そういう意味のある何か秩序を構築している。
でもね。
それらが、意味のあるもの、秩序あるもの
として見ているのは、それをつくってる人間だけよね。
そりゃそうだ。人間が自分たち人間に必要なもの、
あると便利なものをそういう目的でつくってるのだから
意味がないわけがない。当然、秩序もあるようにみえる。
しかし、それは人間にとってそうなのであって、
自然の中で(宇宙の中で)見れば、無秩序なんじゃないの。
人間は、大数の法則を壊す存在のようにみえて、
実はもっと大きな大数に巻き込まれてるんじゃないかと。
地球上に生命が生まれ、進化し、今の人類があるのも、
サイコロで1が立て続けに出ているようなもので、
自然にはなさそうなことだけど、普通にあり得ること。
で、それは全然特別なことじゃないですよと。
サルがタイプライターを出鱈目に叩いていたら
シェイクスピアのハムレットが書き上がっていた
という話も、ええ、全然アリ!
奇跡なんてのは、人間がそう思ってるだけの話。
何か、いろいろ難しく考え過ぎてるというか、
自然に対する偏見が強すぎるというか、
一皮剥けないと、ずっと難問解けないゼッていうか、
そんなようなことを漠然と感じてたり。
毎朝、同じ電車に乗ってると同じ人を見るようになり、
その毎朝見ている人が、ある日いなかったりすると
あれ、あの人は今日はどうしたんだろうな?
なんて、全く知らない人なのに気になってしまったり。
地下鉄の改札の前で、カバンの中を覗き込んで
ちょっと焦り気味の人がいると
さては切符か定期でも落としたか、と憶測してみたり。
駅の長椅子に座って眠ってるサラリーマン風な人は、
これから仕事じゃないのか、徹夜明けなのか、
リストラされて家に居場所がなくなっちゃった人か
なんてことまでいろいろ予想してみたり。
そういう自分にとって無意味な考えが
意図せず勝手に(?)次々と浮かんでくるのは何でか。
意味がある、ないって考えるのが間違ってるのか。
結局これもサイコロの目がランダムに出てくるのと
根本的には同じ現象なのかもしれないわ。
なんて思った入梅の朝でありました。