好き嫌い

プリごろ太って何だよ。
最近ネタがないので、前のエントリで書いた
ケンカの理屈について、もうちょっと考えてみた。
人間の主観の中には
「好き」と「嫌い」という区分けがあります。
同時に「良い」と「悪い」というのもあります。
これらは混同して扱われ勝ちだと思うんだけど、
客観的な意味としては別のものですよね。
でも、大抵の場合、
好き=良いことで、嫌い=悪いという見方になる。
私も人間だから、当然好き嫌いというのはあります。
著名人、有名人の中にも嫌いな人はいっぱいいますが
この日記も、どこで誰が見ているかわからないので
個人を指して批判することはなるべくしないように
してるつもり。。
ではあるんですが。
誰かを槍玉にあげた方が、こういう話はしやすいので
あえて一人あげると。
例えば、私は、江川達也という人が嫌いです。
これは、私が藤子Fファンだということを知ってれば
同時にそうだろうということも予想は立つと思いますが。
彼は漫画家なんですが、どういう理由かわからないけど
かなり理不尽な藤子F批判を展開してる人です。
「ドラえもん」は子供をダメにするんだとか、
藤子Fは腹黒い大人だとか、いろいろいいたい放題。
別に、氏が藤子作品なり藤子不二雄なりを嫌いなら嫌いで
それは勝手なんですが、そのことを、何故そこまでして
(雑誌メディアを通じてまで)悪態つく必要があるのかな、
と思うのよね。
彼の主張を端的にいえば、
のび太はドラえもんに頼ってばかりで、これは子供の欲望を
肥大させるので好ましくない、というようなもの。
これに始まって、ドラは偽善的な漫画だとか、
藤子Fは子供を食い物にしてるとか、善人ぶってるとか、
故に藤子Fは腹黒いとか、敵意(悪意?)むき出し。
一体、藤子Fが江川氏に何をしたというのか。
多分、実際は特に危害を加えられたとかいうことはなくて、
江川氏が藤子Fが嫌いだ、という感情だけだと思う。
それに何かモットモらしい理由をつけて正当化したいために
上のようなヘリクツを後付けしてるだけだろうなと。
江川氏は、ドラえもんを「嫌い」とはいっていない。
「嫌い」ではなく「悪い」といっている。
でも、それは実は「悪い」ではなく「嫌い」なんでしょう。
「嫌い」だから「悪い」ことにしたい。
多分、彼は「ドラえもん」をほとんど読んでないと思う。
ドラそのものではなく、世間に広がっているドラへの評価、
つまり、ドラえもんは教育的な作品であるといわれているが、
オレはそうは思わないね、ということを、世間へではなく、
藤子Fやドラ自体に対する批判にすり替えてる気がする。
とすると、完全に筋違いですね。
そもそも、ドラえもんはギャグ漫画です。
教育云々とか、そういう意図で描かれている作品じゃない。
単純に作品の内容を批判してるのだとしても
じゃあアナタの作品はどうなのよ?と小一時間。。
・・・というような話は、いろんなところで散々書いたので
もうこれ以上はいいませんが、とにかくそんな
江川達也という人間が、私は「嫌い」だということです。
でも、だからといって「悪い」という判断はできないのよね。
ここが、物事を客観的にみられるか、感情的になるかの
分かれ目になってくるのかな、と思う。
とはいえ、善悪ということ自体が主観的なものでもあるので、
好き嫌いが善悪に直結しやすいのは仕方ないのか。
ただ、いったん「悪」の烙印を押してしまうと、
その相手を他のものと同等に見られなくなってしまって、
その相手への攻撃や批判が正当化されやすい。
なので、「嫌い」、即「悪」と短絡するのは
なるべく抑えた方が、人生平穏に過ごせるんじゃないかと。
(人生?)
というか、まず自分がそれを「嫌い」な理由は何か?
と考えてみるのも、ものを冷静に判断する手立てかもね。
それがフィーリングのみ、だったらどうしようもないけど。
ちなみに、私が江川氏を嫌いな理由は(もう明らかでしょうけど)
彼が私の好きな藤子Fさんを悪人呼ばわりしてるから、です。
私は江川氏の人間性とか宗教とか個人思想とか、
そんなものは知らないし、それを知りたいとも思わないし、
それを下手に憶測して攻撃しようとも思いません。
とにかく、藤子F先生の悪口をいうようなヤツは嫌いだ!
てことで。
人を嫌いになる理由としては十分でしょ。
(アレ。なんか、メタ表現のメタ表現でメタメタだな。)
現実は、嫌いな相手を攻撃したがるのも人間の性で、
それを正当化する理由として、いろんなイイワケを
考えて主張したがるのでしょうな。
で、いつの間にかその相手は「悪」になってる。
これが個人同士であるうちは、勝手にやってれば?
といって看過することもできるけど、
ある程度大きな集団同士、或いは集団対個人となると、
いろいろ面倒なことになるのよね。
面倒くさいね。人間社会って。

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