今期から、学校の義務教育課程で
時間数が増え、教材も増えたとのこと。
なぜ増えたと思う?
という先生の問いに対して、ある子供の答え。
「ゆとりがなくなったから」
まぁ、いろんな意味で正しいですね。
北朝鮮が言っても聞かない子だってことは
もう周知の事実というか、世界の常識というか
半分諦めのような感じで知られるところですが。
それでも何とか言って聞かせようとする
国際社会の努力は、単なる無駄というべきか
それとも必要な動きとみるべきか。
形式を重んじて実がないってやつよね。実際。
そんな国でもサルが支配しているわけではなく
一応話が通じるはずの人間が統治しているわけで、
その指導者に対話を求めていく姿勢をとることは、
人間社会で問題解決を図る上での責務なんでしょう。
それにしても、どうにも不毛というか
もっと他に何か良いやり方はないものか、と
コトある度に思うんですがね。
昨日、例の銀座線渋谷駅で
3列での整列乗車というルールが慣行されている中、
また横から堂々と割り込んできた御仁がおりました。
今回はそれが駅員の目の前でのことだったので
さすがにその駅員に制止されたんですが、
割り込んだその男、いわゆる逆ギレ状態になって
駅員に轟々と文句いい始めたのです。
並んでいたのになぜ止められるんだとか、
(実際は次発列車に乗る人の列に並んでたんだけどね)
そんなルール誰が決めたんだとか、
駅員が客にそんなこと強要していいのかとか、
もういつ突っ込んでやろうかと思うほど稚拙な言で
延々まくし立ててた。
その男、見た目は真面目なサラリーマン風で、
会社に行けば普通に仕事してる人なんだろうな
って感じなんですよね。
こんな大人が普通に社会にいるんだ、
と考えると、妙に居た堪れない。
いや、世の中立派な人ばかりじゃない、
ってか、むしろ立派じゃない人の方が多いってことは
十分に理解してるつもりなんですけどね。
私自身も堕落してるでしょうし。
だから世の中は一向に良くならないんだろうし、
こういう現状に馴れ合っていくしか
この人間社会で生きていく術はないんだろうとも思う。
同じ状況をどう捉えるか、ってことでもありますけどね。
それでもとりあえず生きていられるのだから
それだけで幸せなのだという考え方もある。
プラス思考ってやつですか。
実は、プラス思考というのは
集団に人を順応させるための洗脳だという話ですけどね。
それ自体も考え方次第だったり。
確かなもの、絶対的なものは何もないんだ
ということが分かってくると
だんだん人は精神不安定になってくる。
人は何か心に支えや拠り所がないと
普通に生きていけない生き物のようで、
本当は正しいものも確かなものもないんだけど、
なければ、何かそれっぽいモノをでっち上げる。
それは、何か根拠のない信念だったり、
夢や希望だったり、尊敬する誰かや何かだったり、
神様や仏様だったりするんでしょう。
そういうものの中に“形式”というのもある。
人同士が接する際の礼儀とか挨拶とか、
国際社会での立ち居振る舞いだとか、
銀座線では3列に整列して電車に乗るだとか、
そういうものがとりあえず決められていると。
それが必ずしも正しいわけじゃないんだけど、
何か方向性がないとコトがスムーズに運ばない
ということになる。
何かルールのようなものがある状況というのは
そうしないと上手くいかない(その可能性が高い)
ってことなので、そこにルールがあるのなら、
とりあえずそれに従いましょうということです。
従ってみてそれがマズいと思えば、
そこで不平をいえば良い。
こんなオッサン臭いことを書くのは、
もうホントにルールとかマナーとか守らない人が
このところ多いと感じるからなんですけどね。
別に良い子ぶってるワケじゃないですよ。
子って歳でもないですよ。
(それはどうでもいい)
些細なことと思われるかもだけど、
例えば、歩きタバコでそのまま路上にポイッとか、
ガムとかツバを平気で路上に吐き捨てるとか、
私から見ればあり得ない行為なのよね。
しかし、そういうルールを破ってる当人は
それを全く(或いはほとんど)悪いと思ってない。
普通でしょ?みたいな雰囲気さえある。
タバコポイ捨てとか見ると、
宇宙船レッドドワーフに出てくる台詞風にいえば、
その火のついたタバコを、
そのままキミのケ○の穴に突っ込んでやろうかッ!
と思ってしまうのです。
(そんな気分ってこと)
北のアレも、いってみればポイ捨てだよなぁ。。