不自由

何が不自由かということを知らなければ、
自由とは何かを知ることもない。
ある1つの行動に対して制限があるかどうか
と考えて、その行動に制限がないと判断できれば、
その行動についてのみ自由である、といえる。
で、その制限されない行動というのが
多ければ多いほど自由度は高いと感じる。
では、完全な自由とは何か。
それは、考えうる全ての行動について
制限を受けない状態、といえるんですかね。
でも、それは、多分
本当に完全な自由じゃないんだろうな、と。
人間が自由といっているのは、
その行動、思想などについて制限されない
ということをいってるのだと思うけど、
行動についていうなら、人間は
最初から物理法則に従わなければならない
という制限を受けている。
さらにロボット工学的な見方をするなら、
人間の四肢は関節の部分でしか曲がらないし、
その曲がる方向も決まっている。
てか、呼吸をしなければ生きていけないし、
睡眠もとる必要がある。
実際、人間が生物というだけで、
かなり多くの制限事項がある。
それでも、人間が自由だというのは、
多分、人間として可能な限りの自由
ということなんだろうね。
では、不自由とはどういうことかというと、
その想定されていた自由が
何か1つ、あるいは複数失われること、
なんじゃないか。
例えば、五体満足で健康だった人が、
ある日事故か病気で視力を失ったとする。
それまであった視覚という自由度が失われる。
すると、その人はそれを不自由だ、と感じる。
じゃあ、例えば
生まれつき視力のない人はどうなのか。
その人にとって視覚ということは未知の自由度。
それでもその人は不自由だと感じるのか。
あなた以外の普通の人間は
視覚というものがあって光を見ることができるのだ、
と教えられれば、そのとき
相対的に自由度が1つ足りないことを知るけど、
それまでは自分の自由度が全てなのであって、
そこに不自由を感じる理由はないように思える。
本来は五感だけど、自分だけ四感。
それは理不尽だと感じこそすれ、
不自由と感じるかどうかです。
それでも社会で生きていく上で、
視覚がなければ不自由なのは確かで、
それはなぜかというと、
人間社会は、人間には視覚がある
という前提で構築されているからなんでしょ。
もし、人間に最初から視覚がなければ
そういう前提の社会ができていたはず。
まぁ、視覚がなくて生きられる生物なんてのは
地球上の自然の摂理からまず考えられないけど、
もしそうだったらという話で。
逆に、人間は今の五感が全てだと思ってるけど、
それ以上の感覚もないとはいえない。
もしかすると、六感や七感もあるかもしれない。
でも、それがあることを知ったからといって、
人間が不自由を感じるかといえば、
特にそんなこともない気がする。
知覚に対して力不足を感じるかもしれないけどね。
それは不自由ということとは違うと思う。
五感というのは、
生物が生きるのに必要な感覚として備わったもので
(そういう意味では1つでもなければ不自由なんだけど)
逆にいえば、生物が生きるのに必要のない感覚は
最初からない、ってことなんすな。
最初からないものに不自由を感じることはない。
ところで、最初はなかったものでも
後から何かを獲得して、それを失えば、
それも不自由、と感じるんだよね。
社会インフラの多くはそう。
例えば、携帯電話とか、昔はそんなものはなく、
それでも不自由とか感じずに生きていたはずだけど、
今はそれがないと不自由を感じるよね。
(私は感じないけど。多分一般的にそうでしょ。)
自分の中の最高の自由度というのが変われば、
自由と感じる基準値が上がるってこと。
人間は、知りうる最高の自由度に対して
現状どれだけの自由を得られているか、で
自分の自由度を判断してるんですな。
で、人間というのは欲というものがある。
最初は自由度の基準にはなかったものが、
欲によってそれを得てしまうと、
それが自由度の判断基準の1つに加えられて、
それを失うと不自由を感じるようになってしまう。
これは際限ないですね。
人は何かを欲するから、
それを得るために生きていける。
その中には得るべきものもあるだろうし、
得てはいけないものもあるような気もする。
得てはいけないものでも得ることができる。
人間って、それが可能だと知ると、
必ずそれをやっちゃうのよね。
ほんの片田舎でハイテクとか流行とか何も知らないで
マッタリ生きているのが一番じゃないかという気もするし、
こうして発展していくのも、実際そうなっている以上は
それが人間という生き物なんだろうとも。
多分、その前者を切に感じるようになると、
それは歳を取ってる証拠なんだろうね。
(ここでお茶をズズッとすする。)
ふー。秋ですなぁ。

コメント

  1. 緑道 より:

    福沢諭吉 自由とは何か?

    中学生くらいの頃だったろうか?       親から離れて、自分の力で生きたいと強く思う時期があった。
    毎日毎日、学校の校則に縛り付けられて、逃げる事の出来ない高校受験のストレスに束縛され、自由に憧れたものだった。
    ところが、その頃、担任にその事を話すと、「自由ってのも辛いぞ。 やるべき事をやっての自由だからなぁ」  と、愚痴のような不満なような事を言ったのを今でも覚えている。
    当時のretriever達のクラス担任は、若干24才の青春ドラマに出てくるような 長髪の先生だった。   (でも、ち…

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