醤油袋

夏バテくさい。
今日の昼にふと思ったことなんだけど、
人がやること成すことというのはことごとく
幕の内弁当とかについてる醤油の袋みたいなもん
なんじゃないかと。
何いってんの。
いえ、あの醤油の袋って、とても気の利いてることに
手で切れるように切り口がついてるじゃないですか。
中にはマジックカットとかいって、
どこからでも切れますみたいな画期的なやつもある。
でも、その切り口から切ろうとしても
全然切れないことも結構あったりする。
腹立ってくるよね。
普通に切れば切れるんです。多分。
でも、弁当箱の中の袋の配置が最悪な場合、
例えばギョウザの下敷きになってたりすると
袋がギョウザの油でベタベタ状態になってて、
そのヌメる手つきでムリに引っ張っったりすると
ビニールが変な風に伸びてしまい、
もうあとは切れるというのではなく、
切り口がキューッと伸びて手に負えない状態になる。
これが運が良ければ、
キャベツの千切りの下敷きくらいにおさまってて
比較的スムーズに切れてくれるわけです。
何かね、人生もコレじゃないかなんて思えてきて。
出だしが肝心なのはよくいわれることですが、
出だしの状態もかなり後々に響いてくる。
醤油袋がキャベツの下かギョウザの下かの違いで、
それを手にした人の命運は大きく別れるわけですよ。
キャベツな人は、その醤油袋をクールにカットして
速やかに食事を進めることができるのだけど、
ギョウザな人は、その醤油袋と悪戦苦闘することに。
どうにも手では切れないとなったとき、
歯で噛み切るという最終手段に打って出て、
やっと袋を破ったら勢い余って醤油が飛び出し
顔中油と醤油まみれ状態になるとかいう
大惨事に見舞われることもある。
人によってはそこまで努力しない人もいるでしょう。
ある意味、その方が無難で賢いかもしれない。
実はやる気と才能だけではダメで、
それをやるときの環境や状況、
そのタイミングというのも、
何かを成功させる上で重要だろうと。
特に意気込まなくても軽く成功しちゃう人もいれば、
かなり才能もあるし努力もしてるのに
なかなか成功しない人もいるんじゃないか。
そんな不幸な人はきっと
醤油袋がギョウザの下敷きになってる弁当を
ひいちゃった人なんじゃないか。
てか、醤油袋を弁当の中に入れるなって話。
最近のコンビニ弁当は
ちゃんと外出ししてあったりするんだけど、
スーパーのやっつけみたいな弁当は
醤油袋が平気でオカズの一品みたいな顔して
そこに埋まってたりするのよね。
というような不平をぶちぶちいってたら
妙な考えが沸いて出てきたってことで。
全然関係ないけど、
もう長年「あの曲は一体何だったんだろう?」と
思い続けてはや15年、今やもうすっかり忘れてた
鳥取西高の予鈴の曲が
タブラトゥーラという古楽器のバンドの曲
だということが唐突に判明。
しかし、曲名は分からない。
そこまで分かったら
曲名まで知りたくなってきたよチクショウ。

コメント

  1. ぬたっち より:

    おひさしぶりです。
    カップラーメンにお湯を注いで3分後、さあ食べようとすすり始めたら何か物足りない感じ……1/4くらい食ったところでアチアチの「調味由」とやらが浮かんでくることがよくあるぬたっちです。
    さて、ブラックビスケッツの歌にもあった「タイミング」ですが、これって多分細木数子とかの占いの基本思想ですよね。あと一応“科学”であるバイオリズムもか。
    その信憑性はともかく、確かに何をやってもうまく行く時、どれだけ努力しても報われない時ってのはあるし、野球見てたらやたらと解説者が「流れが悪い」なんてフレーズを使ってたり…。
    確率の海に溺れそうな小さな存在である一人間が、何とかそこに必然性を見出そうとする行為ですよね。
    (ちなみに僕は占いは物によってはそこそこ信じます)

  2. 月影 より:

    んー、まぁこういう話は科学ではないです。
    ただ、この世の万物というのは、大体同じような法則性というかパターンで動いているようなところがあって、その縮図的な事象というのが身の回りのほんの小さな出来事に投影されているような場面もあったりするんじゃないかな、って話。
    構造物が段階的に、あるいは連続的に自己相似しているような状態を幾何学ではフラクタルというんだけど、これは構造物に限らず、森羅万象もフラクタルな感じで続いてるだろうと私は思うのです。
    という頭があるので、弁当の引きと人生の引きは同じようなもんだ、という妄想が浮かんできたということで。

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