無知の知

渋谷駅で、昨日オヤジがゲロ吐いて寝てた同じベンチに、
今日はキレイっぽい女性が座ってた。
知らぬが仏。
さすがに汚物がそのままってことはないんだけど、
知ってたら絶対避けるところよね。
何でもそうだと思うんだけど、
やっぱり知るより知らない方が幸せなことは多々ある。
無知でいるのが長生きの秘訣だとか誰かいってたけど、
それは実際正論ではありますよ。
でも、どんな辛いことであっても、
それがどういうものかまで知りたくなるのが人間。
それが激辛であると知っていながら、
それでも食べてみたいと思う気持ちというか。
怒らないからいってみろ、というので、ぶっちゃけたら
やっぱり怒ってしまう人の気持ちというか。
してみると、知る、ということは2段階あるんだね。
まず、そのコト、そのモノ自体の存在を知ること。
そして、そのコト、モノについて知るということ。
で、その最初の段階、存在を知ってしまうと、
それが何かまで知りたくなる。
だから、真に無知でいようと思うなら、
存在すら知らない状態を保たなければならないと。
今日そこに座っていた女性は、
その同じ椅子に昨日は汚物が盛られていた、
という事実それ自体を知らないから、
とりあえず幸せでいられるわけです。
ここで仮に、昨日その椅子に何かあったらしい、
という事実(の存在)をその人に教えたら、
おそらく彼女は、それは一体何だったの?
ということまで知りたいと思うだろうと。
そして、その事実の詳細を知ってしまうと、
彼女の肝のすわり具合にもよるけど、
少なからず彼女の心の平和は破られる。
幸せでいるために肝要なのは、
真実の存在自体を知らないでいることなんです。
バカでいるのが一番幸せ。
ということは、賢い人は大分損してるのかもね。
いろいろ知り過ぎていると、
悩みの種もそれだけ増えるということでもある。
最近は賢くないと生き残れない時代ではなく、
無知でも元気に生きていける世の中なので、
むしろ大いに無知な方がお得なのかもしれませんな。
そうはいっても、
できればバカより賢くありたいと願うのも人間でして、
意図的に無知でいる人はそういないんでしょう。
自分は無知だと思っている人は実は賢くて、
自分は賢いと思っている人ほど無知である、
といったのはソクラテスだったか。
不条理にみえて、
実はそれでうまくいってるのかもね。
とりあえず私は、
あの事実を知っている以上、あの椅子には座りたくない。

コメント

  1. makiko より:

    う~ん。
    月影さんのお話を読んで、似たようなお話を思い出しました。最高級のクリスタルグラスを買ってきてそれに汚物をいやというほど擦り付ける。
    今度はそれをきれいに、きれいに洗ってかわかして、あなたはそれでワインを飲むことができるか?(できない人が多いんじゃない?というニュアンス)
    一方で、汚物が指についたとする。
    それをきれいに洗って、手づかみで食物をとることができるか?(これは平気でやるだろうというニュアンス)
    今度はさきのワイングラスを何もしらない友人に高級ワインを入れて差し出したら、その友人は喜んで飲むだろう。
    という感じのお話でした。
    似ているのは最後のところだけですが。笑
    人間、すべての真理を知ってしまってはいきていけないんじゃあないか…とそんな風に思ってしまう私なのでした。なんか気力も失われそう。

  2. 月影 より:

    自分が主因による汚れについては抵抗が少ないけど、他人によるそれは得体が知れないので抵抗があるんでしょうな。耳垢とか目ヤニとか自分で自分のをとって手につくのは(汚いんだけど)あまり気に留めないけど、他人のが自分の手につくのはイヤです。
    ところで、人間がすべての真理を知ってしまう恐れというのは杞憂ですね。そこは世界の方が億千万倍も器がデカイので心配には及ばんでありましょう。

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