終わらない仕事はない

今夜はオリオン座流星群の極大です。
最近、馬車馬のように仕事をしながら思ったこと。
何か目標を立てると、それを達成するために努力しなければならない。
そんな苦労をするくらいなら、最初から目標なんかつくらなければ良い。
でも、目標が何もないと、じゃあ自分は何のために生きているんだ?
ということになってくる。
つまり、人生=苦労の連続というのはそういうことなんす。
かつて、フランスの哲学者メーヌ・ド・ビランは、
自らの存在を認識するトリガとして“努力すること”を提案していた。
どういうことかというと、
何も抵抗がない、何もかも自由、そのような状態というのは、
生きている実感をもたらさないはずであると。
この浮世で何か実感を経験できているということは、
そこに自らの中に動機が発火し、
それを達成するために何らかものに逆らって努力をしているから、
その努力をすることが、すなわち生きる実感であり、
自らがそこに存在する証と認める、というわけですな。
デカルトの「我思う、故に我あり」はあやしいぞ、
ということで、存在する(それを感じる)ということは、
もっとリアルに発現する何かを伴うべきだろう、
という考え方らしいんですがね。
人はみんな地獄に落ちたくない、と考えてるだろうけど、
地獄が何らかの苦労を強要される場所だと定義されるなら、
実は、この世自体がむしろ地獄といえるんですな。
しかしだからって、
私はこの地獄から逃れようとは思わない。
先日、爆笑学問で福岡伸一の回を見ていて思ったんだけど、
生物を構成している物質それぞれは、
実は宇宙誕生時からずっと続いてきたものであって、
今ここで、例えば私の体の一部として生まれたものじゃないんだ、
という話をきいて、そりゃそうだ、当たり前だと思いつつ、
ああそうえばそうだったなぁ、と、
全く逆の納得をしてしまったんですよね。
世の理のひとつとして、
エントロピー増大の法則というやつがある。
物事は秩序から混沌へ推移するってやつ。
そのエントロピー増大の法則があるにも関わらず、
生物だけは秩序を保とうとする方向を持っているようにみえる。
なぜそんな風になっているかというと、
生物は、物理によって秩序が自然崩壊する前に、
それに先んじで自らを壊している、というんですね。
自分を構成している部品をまず破壊して、
新たな部品を再構築している。
そうして一個の生物という状態を保っている、
ということになる。
そういう状態にある意味固執している生物というのは、
一体何者なのか?
という疑問は果てしないので、とりあえずここは、
我々は折角そういう状態に留まっている希少な状態だ、
ということだけ理解して、
あえてそこから逃れるのはもったいないことだ、
と思うことにしよう、と。
そしてまた明日から仕事の嵐でありますよ。
努力感どころか、努力し過ぎ。生きてる実感あり過ぎ。
GABAのCMを思い出しつつ、
頑張るしかないね。。。

タイトルとURLをコピーしました