プレシオスの鎖

ある日、この宇宙の全てを知っているという神の使いがやってきました。
 「キミは何でも知っているんだね。」
 「そうさ。」
 「じゃあ説明してくれ。この宇宙というのはどうなっているんだい。」
 「……うーん……、困ったな。」
 「なんだ、神の使いのくせに知らないの。」
 「知らないんじゃない。人間の言葉で説明できないんだ。」
 「じゃあ、人間の言葉じゃなければどうなんだい。」
 「それなら、キミも知っているじゃないか。」
この「知っている」、「知る」ということについてなんですが。
「知覚する」、「記憶する」、「理解する」という3つを、
まとめて「知る」といったりするのだけど、
実際私たちが求めているのは、最後の「理解する」ことですね。
「知覚する」というのは、
何らかの情報が、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という、
いわゆる五感によって感覚されること。
(五感以上の感覚もあるかもしれないけど。)
これは外界との物理的なインタフェイスですね。
「記憶する」というのは、
何かを経験するということで、その経験が記憶に残ることで、
二度目以降に同じものに出会ったときには、それが記憶にあるので、
それを既に知っている、ということになると。
で、最後の「理解する」というのが、
上のくだりで訊き手が求めていたものでしょう。
使徒は全てを知っていても、
まずそれを「理解できる」言葉にしなければならない。
仮に言葉になったところで、
それを問う側が自分の言葉としてつかみきれないと、
それについて理解したことにはならない。
実は、私たちは「知覚」して「記憶」まではしている、
つまり「経験」はしているけど、
論理的な「理解」まで到達している知識というのは、
驚くほど少ないと思うんですよね。
例えば、水は酸素と水素から構成される、
ということを私たちは知っています。
でも、そのことは、先人が発見したことを、
学校で習ったり本で読んだりして知っている、
つまり、知識として(記憶として)知っているのであり、
水が水素と酸素からどういうふうに成り立つのか、
どういう法則や条件のもとで水たりうるか、
というところまで論理で(言葉で)は理解してないんじゃないか。
「水」ということたった一つとっても、
それを説明によって理解を得るところまでいくには、
相当の努力が必要なのだという話。
しかし、言葉を尽くさなければ、
私たちは既に「水」というものを知っています。
それは、水素と酸素から成っているなどということを知らずとも、
ただ「水」ということを見て、それを経験すれば、
「これが水である」ということを一発で理解します。
(論理でない、論理を超えた「理解」)
仮に、水というものに出会ったことのない人がいたとして、
(そんな人は実際にはいないけど。)
その人に「水」とは何かを説明しようとしたときに、
さて、どう説明してやろうか、という問題。
これと同様に、使徒は私たちに宇宙をどう説明するのか。
ただ、私たちは宇宙というものに出会ったことがないわけではなく、
むしろ、私たちは宇宙の中にいます。
(外だったらどうしよう……。まぁ、それはないとして。。)
というところでは、水を知らない人に水を語って説明するよりは、
(宇宙を経験している)私たちが宇宙というものを「知る」、
そして論理的に「理解する」というところに至るまで、
幾分かのアドバンテージはあるんじゃないかと。
ここで、こんな一節。
 ジョバンニは、自分というものが、自分の考えというものが、
 汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、
 しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、
 そしてそのひとつがぽかっとともると
 あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、
 すっと消えると、もうがらんとしたただもうそれっきりに
 なってしまうのを見ました。

 「さあいいか。だからおまえの実験は、
  このきれぎれのはじめから終わりすべてにわたるようでなければならない。
  それがむずかしいことなのだ。
  けれどももちろんそのときのだけでもいいのだ。
  ああごらん。あすこにプレシオスが見える。
  おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一部なんですが。
最後の「プレシオス」というのは、
プレアデス星団(M45)のことだといわれています。
銀河鉄道の旅はここで終わってるのだけど、
その向こうに見えている「プレシオスの鎖」から先は、
キミたちがレールを敷いて近づいていくんだぞ、
ということなんでしょうな。
「知覚」と「記憶」(経験)というところに、
「理解」へつながるブロックが散在してるんだろうとは思うけど、
なかなかそれがひとつにつながらないわけで。。

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