生命宇宙の世界(8)

みなさん、こんばんは。
今回は、論理によって宇宙を説明する、
ということについて少し眺めてみることにします。
一般的に何かの問題解決を図るときに、
その回答として出てくるものは、
ある論理体系に従って説明されていなければならない、
とされています。
自然科学は特にそうですが、
形而上学的な分野、いわゆる哲学の分野でも、
この点は無視できないでしょう。
つまり、論拠はなくとも、
最低理路整然としていなくてはならない、ということ。
そもそも、哲学と科学の根は一つでして、
古代から世界や人の成り立ちやその真理について
いろいろと考える分野が存在していて、
それをひとことでいうなれば“哲学”だということですな。
後に事実や事象を中心とした、
実在的、実証的な知識や経験(論拠)の積み重ねによって、
世界が実際にどうあるのか(事実)を語り始めたのが、
今で言う“自然科学”の分野であると。
さて、前置きはこのへんで。
まず、この宇宙(のあらゆるモノゴト)を眺望したときに、
その発生の主因、起源、本質は、
複数の何かに由来するか、単一の何かに由来するか、
という点において考え方が大きく分岐します。
その意味では、生命宇宙の根源は“生命”であるので、
宇宙の由来はひとつである、という分類になるでしょう。
じゃあ、その“生命”なるものの由来は何か?
という疑問が出てくるんですが、
ここがこの論の一番面妖トンデモな部分でして、
生命が一番の根源なのだから、
それの由来なんかないんだ、という話になります。
ということで、
やはりその“生命”に関する説明責任が生じるわけですが。
そもそも、今の自然科学に立ち返ってみたとき、
力が4つに分類されること、
モノを形成しているのが粒なりヒモであること、
それらが存在する場は複数次元の広がりを持つ時空であること、
こういった前提、というか定義は、
実験、検証によって得られたものというよりは、
そう想定して実験したり計算すれば理屈に合うようだ、
という都合上のものであるような気がしています。
生命はとても抽象的なものだけど、
では、何かを理解しようとするときに、
それが果たして数値や数式などといった、
何か具体性のあるモノである必要があるのか?
といってみるテストというか。
多くの理論は、何かを前提して、
その前提が正しいならば結論も正しいはずだ、
という論法をとって説明しています。
(アリストテレスの三段論法)
ただ、こういう言及の仕方には重大な欠陥がある、
ということも、ゲーデルなどによって指摘されていて、
正しい(矛盾のない、反証できない)理論は、
その理論自身によって説明することができない、
その文脈の中に登場する言葉それ自身については、
その文脈の中で説明することができない、
などという、言語の罠のようなものがいくつかあって、
(ゲーデルの不完全性定理)
その意味では、何かについて考える際の道具である
言葉(数、数式、つまりそのような記号表現)についても、
若干の怪しさが噴出してくることになるわけで。
かといって、私たち人間は、言葉や数式以外に、
何かについて述べる(表現する)方法を知りません。
ぶっちゃけ、私たちにできる範囲で最善を尽くしている、
ということになるのですな。
でも、そういう理詰めのことじゃなくても、
人間にも理解できるコトがあります。


いっちゃって良いですか?
はい。それが生命
もうね。どっかの怪しい新興宗教の教祖ですね。
別にそれでもいいんだけど。
(お布施よこせぇー。)
ウィトゲンシュタインという言語学者の著書
『論理哲学論考』の初っ端に、
 世界は、論理的空間における事実の総和である
などと書いてあります。
この時点では、世界というのは、論理によって、
つまり、言語や数式によって分析可能であり、
そのような事象で世界は構成されている、
という前提が彼の中にありそうだとわかります。
彼は同時に、言語の限界についても言及していて、
「思考できないものは思考することはできない」
などという一見当たり前なことも書いてます。
字面は当たり前なんだけど、「思考できること」というのは、
結局私たちの頭で思い描くことのできること、
それ即ち語ることのできること、
言葉(記号表現)によって記述可能であること、
という暗黙の前提がある言及でしょう。
そしてその著書の最後は、
「語りえぬものについては、沈黙しなくてはならない」
という言葉で締められています。
(このフレーズだけは有名かな)
結局、私たちは、
何かを言葉によって思考することしかできないのだから、
それによって思考できないもの、表現できないものについては、
何もいえないし、考えることすらできないヨ、と。
ただ、私はここには抜け道があると思ってます。
「論理的空間」とウィトゲンシュタインはいってますが、
誤解を恐れずにいうなら、
“論理的”である必要はないんじゃないのかね、と。
論理によって表現可能なものばかりではない。
人間は論理的なものでなくてもちゃんと理解する術を持っています。
そもそも、赤ん坊がこの世に生まれ出て、
徐々にその世界というものを認識していくわけだけど、
その過程でその赤ん坊が周囲から入ってくる情報を
論理的に理解しているかといえば、そうしようにも、
まずその記号たる言葉を知らないのだからできない。
何か別の方法で理解をしているはず。
そういう論理的思考回路はア・プリオリなものだ、
という人もいるんだけど、私はそうは思いません。
この赤ん坊が世界を理解する感覚、
そのインタフェイスは、言葉や記号ではなく、
生命としての直感、共感、何かそのようなものじゃないか。
だから、上の言はこう言い換えてみる。
 世界は、感覚される空間における事実の総和である
“感覚”というのは、必ずしも論理的である必要はない、
という意味合いで、
私たちがそれと感じ取れる曖昧な(言葉にならない)ものも、
全て含んだもの、ということです。
ウィトゲンシュタインにいわせれば同じことなんですが、
(感覚できるものは思考可能だ、と考えてるでしょうから)
ここでは、少しその範疇を広げてみたという感じ。
意識の中には、論理的空間(思考空間)にのぼってこない、
浮かんでは消えるような感覚の断片も存在します。
その中で、断片が他の断片と結合して、
それが何か意味があるものになったところで、
ようやく思考たり得るものとして論理的空間に上ってくる。
でも、断片のまま消えていくその感覚は、
実は言葉というものを私たちが習得する以前は、
ストレートに感覚される領域に入ってきていたんじゃないか。
それが、言葉を覚えてからは、
全ての認識を言葉に紐付けようとするから、
言葉というポインタを持たない感覚実体は、
論理空間には上らず、消えていっているだけではないか。
要はですね。
そういう部分の理解を捨ててしまって、
全て現在の自然科学の舞台(とされている論理)で
勝負しようとしている限り、
本質部分をずっと見逃すことになるんじゃないか、
という話なんですがね。
論理にならないものは無意味である、
という指摘もあって、それは正しいかもしれません。
でも、そうじゃない可能性もあるかなぁ、という話でして。
私のいう“生命”とは、
つまりそういう言葉にならない真理全体のことを、
仮にこういう名詞で呼んでいるだけのことです。
全ての動機であり、動力であるものが“生命”。
それは精神的なものも物理的なものも含む象徴で、
根源的なものとして最適な登場人物じゃないですか。
そして、それを私たちは理屈でなく、
直感で理解できます。
「生命とは云々…」などと言葉で説明するまでもなく、
実は私たちは既にそれを知っているでしょう。
その生命こそが森羅万象であり、一でもある。
うまく表現できないけど、
ライプニッツのいう“モナド(単子)”のようなもので、
それは不可分であり本質であり、
その集合たる全体もそのような性質を持つ、
といったところ。
宇宙全体はフラクタルな構造を持っているといわれているけど、
その構造なり、物理なり、性質なりの属性は、
みんな“生命”のそれであると。
みんなみんな生きているんだ友達なんだと。(ぇ)
その中間たる(一部である)人間も同様に“生命”であり、
同じ“生命”である宇宙を理解する術を持っている(はず)、
と考えるのです。
と、ここまで書いたところで、
その“生命宇宙論”自体が理論であろうとするなら、
それ自体について理論で説明不可能じゃないかね、
という文句が飛んできますネ。
さて、困った困った。。。

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