昔…こういう言葉を口にするのもイヤなんだけど、
私が若かった頃、普段の日常生活をしている中で、
ふと、自分が自分でないような気分になることがあった。
いつものように、学校で授業を受けていたり、
友人と雑談をしていたり、会社で仕事をしていたり、
そういうことを何気なくしている中で、
自分の存在を遠く感じる…そんな感覚になることがあった。
その瞬間、
自分でない何者かの視点で自分と周囲を見て、
自分がそのようなことをしていることが、
一体何の意味があるのか、と、
急に何もやる気がなくなる、
そういう気持ちに一瞬陥ってしまうのだけど、
それはすぐに回復して、
また日常の感覚に押し戻されるのである。
最近は、そんな感覚になることはなくなった。
実際それを感じているときは、
そういうことが起こっているという意識はあれど、
いちいちその場でそれについて深く考えたりはしなかった。
こういう感覚もあるのだという感じで、
それも日常の一部として感じていたのだけど、
それを感じることがなくなった今にして思えば、
一体あの感覚は何だったのかと、
ややの不思議さを覚える…。
よくよく考えてみると、
私が私という自我の中におさまっていることも、
むしろ不思議な気がする。
なぜ、私は私なのか。
記憶喪失になった人のセリフではないけど、
私という心が、その自我が、
この私という身体に定着しているのは、
やはり心は身体という物体に由来するものであるからか。
もし、心が身体とは別の由来のものだとするなら、
心が体から離れる可能性もあるわけである。
自我というのは、
ある日突然ふっと現れるものなのか、
徐々に育まれていくものなのか、
それすらよくわからない。
今、私の自我はこうして存在していて、
その私が何かクダラナイことを思いついて、
こうして文章を書いているわけだけど、
その今の私がいつ出来上がったかなんて、
私にだって分からない。
自意識というのは、
自分と他人との区別ができるようになった瞬間
現れるものだというけれど、
実は今だって、自分と他人の区別は、
物体的な身体が、
自分と自分以外のそれという区別をしているだけで、
自分がどこまでの空間を占めているものなのか、
また他人はどうなのかということも、
実に曖昧な状態だと思う。
自分の身体ですら、
自分の意識ではどうにもならない部分も多々ある。
心臓は勝手に動いているし、
呼吸も勝手にしているし、
体毛なんかも勝手に生えるものもあれば、
意に反して抜けていくものもある。
ガンなんて、もともと自分の身体の細胞が
反乱を起こしてしまうことで発病するのである。
どこまでが私で、どこからが私でないのか。
身体、特に脳に意識が宿る不思議というのは、
いまだもってよく解っていないミステリーだけど、
それ以前に、私という存在すらミステリーである。
なぜここにこうして存在していて、
こんなことを考えているのか。
それにどんな意味があるのか。
なぜ私はこんなことをしているのか。
生きる、という生物の目的以外の、
別な自然界に埋め込まれている動機のようなもの、
それが私の中に含まれているとするなら、
考えたり行動したりすること一々に、
何か1つの根源に由来する因果があるのかとも思う。
私は私…なのだろうか?
そして、明日も同じ私だろうか?
それを保証するものは何もない。