人が、映画を見たり、音楽を聴いたり、
或いは雄大な自然の風景を見たり、絵画を鑑賞したり、
そういうものを楽しむ前提条件として、
それらを“良いものと感覚する”ということがあります。
そこでふと思ったんですけど、
人がそれらを良いと感覚するのは何故なのか?
…ということがあります。
何故でしょうか。
良い、という判断の基準はあくまでも主観ですが、
一般的に人が誰でも良いと感じられる性質というのはあります。
それが整然としている、とか、美しい、とか。
ただ、その基準というのも明確に定義されていませんね。
とにかく、人の感覚(動物的な感覚かもしれないけど)で、
それを見たり聴いたりして良い悪いと判断するわけです。
例えば、音楽。
人が美しい、快いと感じられる音楽と、
拙い、不快だと感じられる音楽の違いは何でしょう。
“音を外す”という表現があるけど、
曲の流れの中で、
人が快いと感じられるラインから外れた音にズレると、
その旋律はどこか変に感じられます。
また、音は複数の音色を重ねて表現することがあって、
和音といいますが、
これもうまい組み合わせとそうでないのがあって、
人が快いと感じられる組み合わせを外すと、
ちょっと濁ったような音に感じられます。
この違いは何か、です。
このあたりの感覚は、
プロであれ音痴であれその意見は一致するはずで、
人だけでなく、犬や猫などの動物の耳であっても、
共通して快いと感じられる旋律の規則性は同じかもしれません。
この規則性というのは、実は、
機械的に音階をそろえて一定間隔でシーケンスされるものよりも、
微妙に(ごく僅かに)ズレたり間隔がずれていた方が、
人はそれをより快いと感じるのだそうです。
逆に、厳密に規則的な旋律というのは、
人の耳にあまり快く感じられないとのことで、
その微妙なズレというのは、
“1/fのゆらぎ”ではないかといわれていますね。
(fというのは周波数のことで、1/fはその逆数)
とにかく、
誰でもそのように感じられる、ということ自体が不思議で、
そういうものが根底にあるから、
人の意見や考えは一致する(共通する部分がある)と
期待されるのですね。
音だけでなく、世の中のあらゆる事象を見ても、
そのように協和音と不協和音があります。
自然科学における理論もおそらくそういう部分があって、
それが何かにピタリと一致する協和音であれば、
それは美しく、かつ快いものだとなるのだろうなと。
実は理論というのも、
確かにそれを正しく説明している筋書きだけれども、
何か物足りないように感覚する、そんな理論だと、
あまり一般に認められないような気がするんですよね。
認められないというのは、
自然における協和音になり得ていない、ということ。
本当に的を得ている理論というのは、
それが美しい音楽だと感じられるのと同様に、
感覚的に、或いは直感的に正しい旋律だと、
誰もが理解できるものなのだろうなぁ… と。