前の日記を書いていてまたまた思ったんですが…
おそらくこの世界は、ただひとつでなく、たくさんの可能性が重なり合った世界、
いうなれば「多世界」のひとつにすぎない、ということになっていますよね。
いえ、量子力学の世界では、そういうことになってるんす。
その多世界というのが、本当にパラレルに存在し続けているのか、
それとも、多くあるのは可能性だけで、
世界はやはりひとつに決まりつつ進行しているのか、
そのへんの問題はありますけどね。
一般に(エベレットのいうところの)多世界解釈というのは前者ですがね。
波動関数でいうなら、その波はずっとそのまま波のままなのか、
それともどこかで収縮が起こるのか、と。
観測という行為は、大体波の収縮を意味します。
私という主観がこの世界を見た瞬間、
この世界はその見た通りの世界に確定します。
見るまで(見ていない間)は、この世界は不確定なままです。
ただ、これは、私という主観にとって(のみ)の出来事であって、
他の人の、他の観察者の見る世界もまた違っているはずです。
確かなことは、その観察者の存在に関わらず、
波動関数で示される可能性の重なりあった世界は「在る」と。
量子というのはミクロ世界の話だけを扱うということだけど、
本質的に宇宙は地続きなんだから、
こっちの世界の話があっちの世界ではまた違うってことは、
そう大きくはないと思うわけです。多分みんなそう思うかと。
シュレーディンガーの猫の話のキモは、
不確定性というものを分かりやすく説明するくだりというよりは、
アルファ粒子の放射というミクロ世界の話が、
猫の生死というマクロにつながっちゃうんじゃないかってことで。
こういうデコヒーレンスの問題って、
量子コンピュータの論理でも取り上げられる話題なんですよね。
コヒーレンス、というのはモカとかキリマンジャロとかではなくて、
端的にいえば、波がずっと一定であるかどうかということ。
ここで波といってるのは、波動関数ですね。
波動関数が収縮する、つまり、
猫の生死を“見る”と、デコヒーレンス(コヒーレンスの破壊)になる…。
量子コンピュータが並列処理できるというのは、
複数の状態の重ね合わせ状態を利用して、ということなんですね。
今のコンピュータのようにCPUに計算時間を割り込ませるとか、
そういう擬似並列処理ではなくて、
物理的にもホントに並列に処理が可能になるということです。
デコヒーレンス問題は、
それが起こっちゃうと並列処理が乱される、という話ですね。
コンピュータが並列処理を行っている間は、
それを見ちゃいけない(観察のような干渉を入れてはいけない)
ということですねー。
…ということから考えてもですよ。
コンピュータの中では実際に複数の状態が「在る」ということで、
それはつまり、
本当に状態は重ね合わせのまま進行していると考えられるんですよ。
猫の生死どころではありません。
物理的な出力として重ね合わせの結果が出てくるんだから。
この世界も、絶対重ね合わせですよ。
眼をつぶった瞬間、世界はわーっと波の世界になるんですよ。
それは極端だけど、
私が解釈する以外の世界(他世界?)ってのはどうなってるんだろうと、
そんなの死ぬまで分からないとは知りつつも、
空想は止まないのであります。
私の世界は、貧相な部類なんだろーなぁ…。
価値観の基準もよく分からないから、貧相も豪華もなんだけどね。
ただ、なんとなく、イチローとかとは明らかに、こう…。