しかるに、全ての自然科学は心の働きにほかならず、 全ての知識はここの源を発しているのである。 心は、宇宙の不思議の中で最大のものである。 心は、客体たる世界にとって必須の条件なのである。 西洋は心がそのようなものだということを 殆ど認めてこなかったと思われるが、 これは非常に驚くべきことである。 認識の対象となる外部客体が洪水となって、 認識の主体を背後に押し戻し、 明らかに無に帰せしめたのである。 C・G・ユング
つまり、人は自分の精神や意識、つまり心というものを忘れていると。自然科学は、自然現象や宇宙の有り様を説明する学問だけど、その世界ですら、心など無いものという仮定の下で進行している。
普段、身の回りの出来事を認識しているのは自分の心なんだ、ということを気にしていない。認識の主体たる自分が中心であるが故に、自分以外の外部の出来事が認識の対象となる。そして、外部から自分が同じく客体として見られると意識した時点で、初めて自分というものが客体の一部なのだと認識する。
その認識というのは、一体何に由来しているのか。
とりあえず自分である限りは、自分が一番良くあれと思う。こういう自己意識があるということ自体は忘れているくせに、とにかく自分の最良の生きる道を模索しようとする。何かが欲しいとか、何かを知りたいとか、そういう欲求の動機をさらに探求していくと、さて何故自分がそのように欲するのかという理由も定かでなくなる。
でも、それを突き抜けたその先に、生きるということの、つまり生きようとする、そう動機する意識の存在というものが何であるかということの起源があるかもしれない。でも、それでも自分という意識の寝床から出ることができないから、永遠にそれを知ることはできないのかもしれない。
唯物論であっても、心というのはこうしてモノを考えている以上「事実として」存在するのよね。