知るということ

先週と同じく、また近所のモスで昼をとっていたら、隣の席に、今度は中年のおじさんと若い青年が座った。
おじさんは青年に「好きなものを買ってきなさい」と、千円を渡す。するとその青年は「いいんですか。ありがとうございます」と恐縮している様子。上司と部下かなぁ、と思ってみると、某新聞のロゴが入ったカバンを持っていたので、ああ、新聞屋かと察する。
何やら書類を取り出し、2人でそれをみて話しが始まる。
おじさん「どうだった?」
青年「だめですねー。2件でした」
おじさん「そうか… ここは?」
青年「あー、そこは引っ越されるということで」
おじさん「そうか… こっちは?」
青年「あー、今なんか忙しいということだったので」
おじさん「そうか… ここは…」
青年「あー、留守でした。大体留守ですねーこのへんは」
おじさん「そうか…」
そして沈む2人。
どうやら契約をとろうとまわるも連敗中の様子。まあこうしてネットが使えるようになってる今、新聞で情報を得る必要性もなくなってるしね。新聞をとるとなると大体3000円からとられるし、今どきそれだけのお金を払って新聞を定期購読しようというモチベーションもなくなってるよね。という私も、もう新聞は取らないと決めているわけですが。すみませんね。あなたがたに恨みはないですが、過去、某新聞屋にちょっとあり得ない対応をされたものでね。
道すがら、古い橋に刻まれた文字が目にとまる。“昭和四十年三月”とあった。きっとこの橋のできた年なんだろう。その文字を見てそう理解できるということについて、またいろいろ考えてみる。
文字を理解するというのは、その文字に一定の意味が割り当てられていて、そのパターンを私は知っているから理解できる。多分、日本人なら誰でも。他の国の人でも、母国語については理解できる。
その意味とは?
なぜ物事には“意味”があるんでしょうね。そして、なぜそれを理解しようとするのか。人がものを知るということ自体に意味はあるのか?そもそも、知ってどうする?事情がわかれば、生きていきやすくなるのか。いや、人の知の殆どは多分好奇心でしかない。実は、その好奇心を満たすということは、人が生きる上で欠かせないものなのかもしれない。
新聞も、世間の出来事を知るためのものなんだけど、それを書いているのは結局人間なのよね。そこに書かれていることは果たして真実なんだろうか。

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