今ちょっと、何かを発見するということと、それの意味を理解するということの違いについて考えてます。
……また変なこと言い出しましたよアノ人って。まあ聞いてください。
何かに気づく、というのは、それをただ単に見る、とか、触れる、とかいう、いわゆる「感覚する」ということに加えて、それがどういうものであり、何者かということを理解して初めて成立するものなのでしょう。
感覚しても、気づかなければ意味がない。
かつて、フラウンホーファーという学者がいて、彼は望遠鏡や光の解析をしたりしてた人なんだけど、ある日、スペクトルの中に暗線があることを発見した。暗線というのは、連続してるはずの光のスペクトルの中に、一部、暗く途切れている部分があるというもの。
これ自体、とりあえずは大発見。
でも、フラウンホーファー自身は、それの意味するところが理解できず終いだった。後に、それはいわゆる吸収線(ある波長の光が特定の物質に吸収されてスペクトル上欠ける)だということが分かった。
つまり、その現象自体には気付いていたけど、その原因、意味、理由については理解できなかった。その原因が後になって解明され、その吸収線が様々な物質の存在を証明する証拠になることがわかったと。
同様に、日常において何気なく(無意識に)経験していることにも、そうなっている原因が必ずあるわけよね。隙間風が吹いてるとか、道端に空き缶が転がってるとか、どこかで犬が吠えてるとか、あまりに日常過ぎて、なぜそうなっているかとかいちいち考えないけど、その原因とか意味とかを追求していくと、何か新しい真理が見えてくるんじゃないか。みたいな。
例えばね、今目の前に同僚の女性がいたとして、ですよ。彼女がいつも以上にチラチラと私の方を見る(ような気がする)わけですよ。それ自体に私は感づいているんだけれど、それは何故かしらと。
まず自分は非モテです。なので、ここでいきなり惚れられたなんてことはまずない。私ではなく私の後ろの人をみているのか。いや、後ろは壁である。ヒゲでも剃り忘れたかな、と手で顎をさわって確認するも、とりあえずいつもの感じで剃れてるっぽい。顔に変なもんでもくっついてるかと鏡で確認するも特にない。そういえば、年賀状の返事を出さなかったのを、今ごろ私に云いたげにしているのかな……んなアホな。最近、何か気に障るような発言でもしたか……
そんな感じで、いくら考えても結局理解できない。
真実がどうであれ、今の自分にはそれが限界……という諦めもときには必要かもしれない。私の理解にも限界がある。フラウンホーファーがそうであったように、私も彼女の仕草の原因なんて知ることができないし、理解できたらできたで何か有益なのかもしれないけど、理解できないままでも、まあ生きていくことはできるんですな。もしかしたら、知らない方が良いことだってあるかもしれない。無知でバカの方が人生幸せ説。
全てに気づく必要はない。何この結論。