テレビで総裁候補討論やってますな。まあ、どうせ小泉さんでしょ。
宇宙のはじまりは火の玉だった。そこでは全ての物理法則が破綻するだろうともいわれている。この考え方は、神が最初にこの宇宙を創生するとき、それは神の意思でどうにでもつくれるという自由度があるので、宗教的にも受け入れやすいのかもしれない。でも、科学者としてはそこで満足はいかないわけで、やはり最初から最後まで一貫した理論で記述したい。とはいえ、それは果たして人知で叶うものなのか。人間ごときが宇宙の全てを知ろうなど、それこそ身の程知らずの所業で、最初から不可能、夢物語ではないのか。ならば、宇宙がどう創られどうなっていくかなんてこと諸々は神様の意思としてしまうのが楽でよろしい。
歳をとると、ある悟りを開くというか、人間には到底無理なことに挑戦しようとしている、苦労の多い自然科学という方向を極めていくのが果たして正しいのかという疑念を抱くようになってくる。一種の諦めのようなものがでてきて、神や仏でいいじゃん、みたいな思いが優勢にるんじゃないのかな。若い頃は科学の研究に邁進していたような人が、晩年になると宗教に傾倒したり出家したりするのも、そういう感じなんじゃないかなと。
そういう意味では、生涯ずっと科学者という人は、飽くなき探究心の持ち主というか、そのモチベーションをずっと保っていられる強靭な精神の持ち主なのかなとも思うね。或いは、本当に人間にも宇宙の深層、真理に到達できると信じているのか。
とある店で、子供と母親が一緒に食事をしていて、子供は母親の注文したものをしきりにねだっている。母親は、仕方ない子ねぇ、という感じで、ねだられるものを子供の器に分けて与える。当然の結果として、子供は自分のものを最後まで食べられないで苦しんでいた。
子供って、計算しないんだよね。というか、食べる前の空腹なときは、自分はいくらでも食べられると思っている。これが、ある程度経験をつんでくると、自分に許容できる量というのをわきまえてくるようになる。むしろ、これは自分に食べられるだろうか、という予測できるが為の不安も生まれてくる。だから、大人になると、その予測が強く働いて、失敗の可能性が高いものはやる前から諦めるということも多々ある。
科学者は、もしかするとずっと子供の精神を持ってる人なのかね。それはバカとか幼稚とかいう意味ではなく、いやある意味そうなのだけど、子供の「最後まで何でもできる」と思う精神は、科学的探求には必要不可欠なものなのかもしれないなと。