日常への抵抗

金曜、初めて職場から家まで、電車を使わず歩いて帰った。
なぜそうしようと思ったのか。
会社を出て駅へ向かう途中、同じ職場の人が前を歩いているのに気づいて、何となくそれを避けようとして横道に逸れたのがきっかけだった。別に嫌いな人ではなかったが、なぜか誰かと一緒に帰りたくない、という心理が働いた。
そのせいで、私はいつもの駅への道ではなく、見知らぬ道へ迷いこんでいくことに。いや、道を知らないことはない。家から職場までの道は車で二、三度走ったことがあるのでだいたいこっちじゃないか、ということは分かっていた。
そのぼやっとした記憶を頼りに、歩いて帰ってみることにする。たまにはいいんじゃないか。ちょうど、いつも満員電車で通勤することに何か抵抗してみたいと思っていたところだ。
電車なら、乗り換えありで駅5つ分の距離。しかし、距離よりも、普段通らない道を自分が今歩いているという、その非日常的な状態について考えることの方が私には重要に思えた。
妙な展開である。自分のこの不意な行動すら、実は何かの法則によって記述可能なのだろうか。私がこの行動をとったことは、おそらく私しか知らない。そして、なぜこの行動をとるに至ったかという動機については、当の私自身にすら分からない。それを、この大宇宙は知っているのか、と考えると、自分はいつも自分の意志では動いていないのだと思い知らされる。
家まで徒歩で所要時間は二時間。電車を使えば30分足らず。電車は、その時間を短縮するという役割を果たすのだが、それによって多くの人間が電車を利用するという必然性に、奇妙な暴力性を感じる。

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