人間という動物

GWなのにずっと大雨であります。
ちょっと車で遠出するつもりだったんだけどモチベーションダウン。
CSでNHK『映像の世紀』の再放送してるのを見てるんですが
改めて凄まじい映像ばっかりで、こんなのよく放送できたなぁ
と思うようなものもかなり多数。
一応書いておくと、『映像の世紀』というのは
1995年にNHKで米ABCと共同制作され、Nスペとして放送された
歴史ドキュメンタリー番組で、主に第二次大戦前から戦後までの
映像として残っているものを再編集された番組です。
これ、ゲームだったらCERO年齢区分Z確実だと思うんだけど
そういう制約を超えて、現実にあった歴史なんだから
これはこういうこととして理解しないといけないんでしょうね。
思ったのは、基本的に人間って平等じゃないんだなぁということ。
人間社会の道徳では人間という生物種の下で
その身分なり権利なりの平等が形式上は謳われているわけですが
現実はそんなことはない。
生まれた国や家、その場所や時期によっても
その人生がイージーになるかハードになるかがほぼ決まってくる。
確かに、人類みな平等という約束事というか前提が崩れると
人間社会はおそらく崩壊します。
人間が人間でないとすると、人間以外の動物ということになるので
それは犬や猫と同じ扱いをしても良いという話になるわけで
当然、その存在や命の優先度も一段低く扱われるわけです。
そしてその分け隔てをする理由が合理的であることはまずない。
裏を返せば、誰でもその犬猫になる可能性が出てくるということ。
誰もそうはなりたくないし、その可能性を孕みたくもないので
まずは人はみな平等であると前提する必要があるんですね。
形式上はそうであっても、実際はやっぱり不平等です。
戦時中の極端に悲惨な映像を見てると改めて思う。
アウシュビッツの強制収容所の様子とか、
戦時中の兵隊がゴミのように扱われてる様子とか見てると、
この人たちはもう人扱いされてないなと。
占領された国や植民地の住民も人間じゃない。
奴隷も人間じゃない。敵兵も捕虜も人間じゃない。
戦時中はそれが明らかだけど、
非戦時下の今でもそういう感覚というのはどこかにあると思う。
そうでなきゃあんなことはできない。
戦争という非常事態で精神状態が異常になるのではなく、
本性として競合する相手を貶めたいという精神は存在していて、
その部分が戦争という事態を言い訳にして露呈してくる。
そこを理性で抑え込んでるのが平和な社会ってことなのかなと。
結局、理性は人間の本性のブレーキなんですよね。
そして平和や平等を目指しつつ社会が近代化してくれば
そのブレーキはかかりっぱなしということになる。
近代社会がストレス社会というのは当然の成り行きだと思う。
その歪がついに爆発してしまうと戦争ということになる。
こうしてみると、人が歴史的に戦争を繰り返してきたのも、
いってみればプレートに歪が溜まって定期的に地震が起こるという
あのメカニズムに似たものがあるんじゃないかとさえ思えてくる。
そのことを否定するのではなく、そういうものだと理解して
では、それを防ぐにはどうするかという対策をとることはできるか。
このことが機械である人間、自然である人間に
起こるべくして起こっていることだとするなら無駄な足掻きか。
それとも、知性の動物である意地を見せることはできるか。
つまり、運命に抗うことができるかという話になると思うのだけど
これが、例えば物理法則をねじ曲げて石を宙に浮かせられるか
というような試みだとするなら、ちょっと難しいかもしれないぞと。
そもそも、人間が人間でないものと区別される理由って
実のところ何もないんですよね。
結局、そのへんの自然にある物質から構成される物体である
という点に関して、人間も犬も猫も石っころも変わらないのであり
人間の構造がそう動くようにできている機械であるかもしれないけど、
それも万物に平等な自然法則に従って動いているだけなのであり、
石は石で同じ自然法則に従って転がるのである。
そのへんは全て平等だといえそうなんですがね。
それで悟った。人間が人間としてみな平等なのではなく、
自然の存在全てがその構造物であるということにおいて平等なのだ。
つまり、人間も犬も猫も石っころもみな平等。
ふむ。だからどうした。何も解決しませんな……
とりあえず、雨やまないかなぁ。

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