言葉にできない

子供はボタンを押すのが好きだよね。
ポチッと。
ちょっと思ったこと。
世界各国でいろんな言語が使われてますが、
母国語でない言語の文章や表現は、
理解できる母国語に翻訳して理解しようとしますよね。
でも、翻訳によって、
もともとの言語による表現が完全に変換されるわけではない。
むしろ、元の意味に最も近い表現にコンバートする、
というのが翻訳という処理なんだろうと。
例えば有名な話で、日本語の「もったいない」という言葉は、
他の国の言葉に、それに適当な訳語がないらしい。
おそらくそれを、英語であれば、貴重な(preciousness)とか、
惜しむ(spare)とか、無駄に(waste)とか、
それに近似的な意味合いの言葉に置換されるんでしょう。
でも、「もったいない」は、
貴重でも惜しむでも無駄でもなく「もったいない」なんですよね。
こういう象徴的な言葉に限らず、
もっと日常的な会話の中の言葉ひとつひとつにしても、
完全に他の言葉に置き換えることはできなくて、
なんとなくニュアンスで理解しているようなところが
かなりあると思うわけです。
で、これは現代語でもそうなんだから、
今より言語が発達してなかった昔、古代のこととなると、
もっとその格差は大きいんじゃないか。
昔のアリストテレスとかエウクレイデスとかが書いた書物を見ても、
多分まずはサッパリわからんと思うのです。
そこからはじまって、この言葉は現代語に置き換えると、
さてどれが一番似つかわしいだろうかと議論しながら
試行錯誤の上にやっと現代語訳版の書ができあがるわけだけど、
多分、それもアリストテレスが言いたかったことが
バッチリ書かれているわけじゃないんでしょう。
アナクシマンドロスのいう“アペイロン”(何か限定を受けないもの)とか、
アナクシメネスのいう“アルケー”(何かエネルギーっぽいもの)とか、
“モナス”とか“ロゴス”とか“ヒュレー”とか、
古代の自然哲学者といわれた人たちが生み出した様々な言葉は、
多分それを他の言葉に翻訳できないものなんでしょうな。
それじゃあまりに学問として拡散しすぎるから、
何か基準を設けて、客観的に近しいと思われる表現は
なるべくそれを指し示す言葉を共通化しようや、
ということで統廃合が進んで、
徐々に現代語に“妥協”していったんじゃないか。
こんなことを考えてると、
最近、正しい日本語とは何ぞ、というような議論もあったりするけど、
言語が正しくなくても表現が伝わればいいんじゃね?
などと思えてきたりもしたりね。
実際は、正しい間違い以前に
伝わってないけどネ?
というか、コミュニケーションするときって
言葉を交わしつつ言葉以外の何かを飛ばしてるよね。
そんな気がするのは私だけか。
電波とかいうな。

コメント

  1. makiko より:

    >言葉を交わしつつ言葉以外の何かを飛ばしてるよね。
    つばっ?
    と思った私はばかですね~。
    さて、「もったいない」は最近
    Too good to be wasted.って感じで訳されてること
    多いようですよ~。ま、一例として。
    カナダ人はものを大切にする人が多く(え?貧乏性なだけ?)
    このことば、めちゃくちゃよくききます。笑。
    さてさて~
    >実際は、正しい間違い以前に
    伝わってないけどネ?
    私もそんな気がします。伝えることってとっても難しいですよね。
    とくに、思っていることを正確に伝えようとするのは
    もう無理にちかいかも~。
    ついついめんどうになって、
    真剣に伝えようとすることをしないというのもありません?
    もういっか…っと思ってしまう。
    こうやって、だんだんコミュニュケーション下手になっていくんでしょうねえ…

  2. 月影 より:

    だがしかし
    "too good to be wasted"=「もったいない」
    に非ず、ですね。
    相手に本当に理解してほしい!ということが
    このところ少なくなってきている気がしますね。
    昔はなかなか伝わらなくて苛立つことさえあったのに、
    今は「それならそれでいいや」と冷めているというか。
    歳・・・なのかなぁ。。

  3. 匿名 より:

    古代ギリシアでは「偽善」という言葉どころか観念それ自体がなかったらしい。
    例えば誰かが公園を積極的に掃除していて「あの人えらいなあ」となったとき、実はその人は区会議員に出馬を考えていて地元へ媚びを売っていた場合「何だよ、実は偽善者だ」ってなるかもしれない。
    しかし古代ギリシアでは「その人に下心があるかどうか?それが何か?公園きれいになったわけでしょ?それ以上何か?」というわけで公園がきれいになったかどうかだけで「善悪」みたいなものを判断したらしい。

  4. 月影 より:

    「偽善」は巡りめぐって結局「善」という言葉に落ち着くんじゃないかなあと思いますね。結果として得られる効果が同じなのであれば、それを指し示す言葉はひとつでいいじゃないか。
    でなければ、真の「善」とは何かと考えなければならなくなる。良いことをする、というのは、世のため人のために自分の苦労を提供して行動を起こすこと、なんだろうとは思うけど、それをする動機は必ず何かあるわけで、その動機とはおそらくその人が自分にとってもプラスになることを見込んでいる、のでしょうから、その時点で偽者になるのか本物になるのか区別がつけにくくなるんですな。

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