アナロジー

Struts2に苦戦中。。。
突然ですが、“理”というのは、
道理、論理、物理などの言葉に表れているように
世の中の真実を語るもの、というようなもの。
仏教では“理”の対語は“事”だとされてるけど、
“事”というのは事象、現象のことで、
私たちの目でも見たり手に触れたりできるものですな。
だから、“理”とはそうして表象するものではない
いわゆる抽象を指すのかと思われると。
その“理”というものを語るときに、
よくアナロジーという導出が使用される。
アナロジーというのは、
ある文脈で語られるAが正しい場合に、
同じ文脈でBというものを語ることができるなら、
そのBも正しい、と類推することである。
これは、文脈が正しければ、それで語られることも正しい、
という公理のようなものの上に成り立っている話。
とりあえずこれが認められているから、
私たちは言葉によってコミュニケーションすることができると。
例えば、10個のボールをプールに浮かべる。
その水面に振動を与えて波を起こすと、
ボールはおよそ一様にその波の衝撃を受けて揺らぐ。
このとき、特にどのボールが大きく動くということはない。
同様に10個のボールをプールに浮かべておいて、
今度は、同じボールを浮かべたボールに向かって投げつける。
この場合、命中したボールは弾かれて後ろへ飛んでいくけど、
当たらなかったボールはその場で浮かんだままであると。
ところで、金属に一定以上の振動数の光を当てると、
ある一定量のエネルギーをもった電子が飛び出してくる、
という現象があるのだけど、この文脈は、
ボールに波を与える、という文脈とは異なり、
ボールにボールを当てる、という文脈と同等である、
とみなすことができる。
つまり、光というのは波ではなく粒子である、
という説明足り得るのだ、というのがアナロジー。
この話は、論理的には妥当のように思えるんだけど。
でも、どうも直感では納得できない感覚も残る。
この論理と感覚との間のギャップの存在というのは、
論理は真理を捉えきれていないのではないか、
あるいは、論理では真理を語りつくせないのではないか、
という漠然とした不安感がある。(私だけ?)
論理で動作するコンピュータの動作が機械的であり、
人間や動植物の行動が自然に感じられるのは、
完全に論理で動くものとそうでないものとの間に
何らかの差があるからだろう。
そして、その差について論理で語ることができるか
というと、それこそ自己言及なのではないかと。
論理やアナロジーという言語的思考の発達によって
人類の文明は飛躍的に発達したのだけど、
実はその論理(という方法)こそが、
人の思考を抑え込んでいるリミッターでもあるのだなぁ。
Struts2とバトルしながら眠りそうになりつつ、
ぼーっとそんなことを思ったのでした。
仕事しろオレ。

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